食材を生かした、季節ごと(四季)の美しい彩りを見せる和食は今や世界に評価されています。しかし、和食も常に変化し続けています。
明治時代初頭
解禁されるまでおよそ1200年間、日本人の肉食は0ではありませんが、西洋と比べれば著しく少ないものになりました。その間、魚介類で動物性たんぱく質をとり、大豆と米で植物性たんぱく質を補給する健康で長寿効果の高い食生活が続きました。
肉類
比べればどうしても物足りない面もあるため、それが「だしをとる」ことの工夫に繋がりました。お客をもてなす心から見た目の美しさにもこだわる料理様式がいくつも生まれました。
縄文時代
「煮る」「茹でる」を可能にした縄文式土器の発明!
この時代の最大の特徴は縄文式土器です。この非常に深い土器を手にしたことにより、縄文人は煮込んだり、茹でたり、あるいはスープを作ることができるようになりました。それ以前の料理方法は、焼く、燻製、天日干しくらいでしたから、縄文式土器の発明は日本の食の歴史にとってとても大きな出来事と言えます。
縄文時代を語るうえで、縄文式土器と並ぶキーワードは貝塚です。貝塚は関東地方を主体に全国で約1600か所見つかっています。その貝塚で見られる貝はアサリ、シジミ、ハマグリ、カキ、サザエ、アワビなど種類も豊富です。縄文人は貝を縄文式土器で煮込んで食べていたことが分かりますね。
現代人の私たち
貝の味噌汁や貝汁は旨味がとても強くて美味しいことを知っていますよね。縄文人はその原因がコハク酸の成分にあるということは知らなくても、食においてすでに「旨味」を味わっていたのです。このことは現代において世界から評価される和食文化の萌芽と言えるでしょう。
縄文時代後期に中国から稲作が伝来
しかし、この時代ではまだ米は狩猟でも獲物が少なかった時の補完的食料という位置づけでした。
紀元前1000年から紀元前600年頃、縄文時代後期に、中国の長江下流や朝鮮半島南部から現在の福岡県や佐賀県に渡ってきた人々が、日本で稲作を始めました。
ちょうどその頃、気候の変動もあり自然の産物だけで食料の必要量の確保が難しくなっていた縄文人は、彼らの技術を見たり聞いたりして、狩猟の補完として、稲作を始めたのです。
弥生時代
「ご飯におかず」という食事のスタイルが発生しました。図のように米は高杯(たかつき)に盛って、おかずは魚や貝、鳥獣の肉、きのこ、山菜など多彩でした。
おかずの食べ方で特筆するべきなのは、この頃から魚を刺身で食べていたことです。中国の歴史書「魏志倭人伝」に「日本人は生で魚を食べる」という記述が残っています。
675年に天武天皇が発布
「肉食禁止令」は、現代まで繋がる健康長寿効果がある和食文化の原点と言えます。
肉食を禁じられたことにより、魚で動物性たんぱく質をとり、大豆と米で植物性たんぱく質を補給するという、世界で類を見ない健康長寿効果の高い食文化を形成するきっかけになりました。
また、肉食が出来ない物足りなさを補おうと、だし取りの工夫や、彩も鮮やかなおもてなし料理、後の時代の精進料理や本膳料理や懐石料理に繋がっていくのです。
「肉食禁止令」
和食の歴史において重要な意味を持った法律です。
厳密に言えば
この法律により動物に肉が全て食べられなくなったのではありません。一部の残酷な方法の狩りは禁止されたものの、牛馬犬猿鶏以外の動物を食べることは禁止されていません。
しかし、この禁止令により、日本人の食卓から動物の肉が0ではないものの激減したことは確かです。
日本書紀の中には
「牛馬犬猿鶏の宍(しし:肉のこと)を食うことなかれ。この他は禁令にあらず。もし犯す者あらば罰せむ。」とあります。
この禁止令が法律として廃止されたのは1871年(明治4年)です。開国し西洋文化が流入し、牛鍋が流行った時代ですね。それまでおよそ1200年もの間、肉食を避ける文化が続いたのです。
大饗料理は日本で最も古い儀式料理
藤原氏など高位の貴族が、大臣に任じられた時や正月に、天皇やその親族を招いて、饗応した(もてなした)料理です。
大饗料理の形式は中国の影響を受けています。
上の絵から分かるように、料理を盛りつけているお皿は全て1つの大きな卓に乗せています。
また、お皿の数は必ず偶数です。
後で紹介します室町時代発祥の本膳料理は、膳をいくつにも分けています。また日本には偶数を嫌い、奇数をおめでたいとする風習があります。その中でお皿の数を偶数にすることに中国の影響を強く感じさせます。
料理内容は、魚や干物を切って並べ、膳の手前側に料理とは別に塩や酢などの調味料を入れた小皿を用意して、好みの調味料につけて食べました。料理としては原始的で、それぞれが餃子のたれを好みに合わせて作って食べることに似ています。
尚、894年に遣唐使は廃止された後は、中国の影響は薄れていき、刺身の綺麗な断面を見せる盛り付けの工夫など日本的な特徴が表れてきました。
鎌倉時代
平家を倒して鎌倉幕府を開いた源頼朝は、公家貴族の華美贅沢を嫌い、質素倹約に努めました。当然この時代の特徴は質素倹約になります。
既存の仏教の教えに不満を覚えたこの時代の僧侶は中国で禅宗を学び、それと共に精進料理を日本に伝えました。
この時代も当然肉食禁止令が生きています。特にそれを強く守ろうとしたのは僧侶でした
精進料理
肉食を断つため、野菜などの植物性の食材で肉に近い味が感じられる工夫がされています。植物性の食材を味の濃い動物性食材の味に近づけるため、小麦粉や大豆粉などに植物油や味噌などインパクトの強い調味料と合わせる必要があります。
それらの料理技術を禅宗とともに中国から持ち帰った鎌倉時代の僧侶が日本に精進料理を広めたのです。この料理の料理人は僧侶です。今でも「精進します。」という言葉を使いますが、精進という言葉には、「修行する。」という意味があるのです。
室町・戦国・安土桃山時代
鎌倉幕府が倒された後、開かれた室町幕府は京都に置かれました。京都の公家文化と距離をおいた鎌倉幕府と違い、武家社会でありながら公家との交流は盛んになり、その中で武家による儀式を重んじた料理が発祥しました。
本膳料理
武家がお客を饗応する(もてなす)ための料理で、儀式としての要素が非常に大きい料理様式です。
本膳料理は膳を用いて、奇数の膳組を基本としていたことから、極めて日本的な要素が強い儀式料理でした。平安時代の章で紹介しました大饗料理が1つの大きな卓に皿を全部載せて、その皿の数が偶数であることから中国の影響が強いと説明しましたが、それと対照的でこの時代に日本式の儀式料理の完成を見たと言ってよいでしょう。
昆布だし
使われたことが分かる最古の文献は室町初期(1300年代後半と思われます)の「庭訓往来」という文献です。それ以前は、平安時代の大饗料理で説明したように、食べ物とは別に塩や酢という調味料を用意して味をつけていましたね。
かつほぶし
初めての文字が見られるのは「種子島家譜」(1512年)という文献です。かつおによるだしが用いられたのは1400年代だと考えられています。だしとして昆布より遅れた理由は、昆布はだしに適した品種を選ぶだけで良いのに対し、鰹節の製造は当時としては難しかったからです。
その後江戸時代には「昆布と鰹節のあわせだし」の記述があり、現代に近いだしの取り方が発明されたことがうかがえます。