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japan-eat’s blog

食に関する事や飲食店の運営に関する内容を記載してます。

ラーメンがさらに美味しい季節になりました

日本で最初にラーメン(中華麺)を食べたのは誰で、いつなのか。従来は江戸時代、水戸黄門として知られる徳川光圀みつくにとされてきたが、最新の研究で1300年代の南北朝時代、後醍醐天皇の皇子とされる禅僧にまで遡ることが分かった。中華麺のルーツとされる経帯麺けいたいめんの文言が禅僧の詩に見つかったためだ。国民食の歴史研究に一石を投じる新見解として注目される。



 

1870年

横浜で日本初の中国料理店が誕生します。以降、中国料理は長くにわたってコース主体の高級料理でしたが、明治後期ごろから中国人留学生が増えるにつれ、大衆向けの中国料理店も増加していきます。
そんな中、1910年に東京・浅草にオープンした「来々軒」は、中国の麺料理と日本の食文化を融合させた最初のラーメン店でした。
多い日には、1日で3,000杯を提供したというほど繁盛したそうです。

 

室町時代に供されていたという「経帯麺」

ラーメン界では、日本で最初にラーメンを食べた人物はあの水戸光圀(水戸黄門)とされてきた。1665年に光圀が明国の儒学者・朱舜水を水戸藩へ招いたときに、中国の麺を紹介される。そして、1697年6月16日に光圀が朱舜水から伝授された麺を家臣に振る舞ったと『日乗上人日記』に記載がある。これが日本で初めてのラーメンだという説が濃厚だった。

 

 

屋台から広がるラーメン文化

1923年に発生した関東大震災は、当時ラーメン店が集まっていた東京や横浜に甚大な被害をもたらしました。
この震災以降、手軽に始めることができる「屋台」が増えていき、ラーメン店は全国へと散らばっていくことになります。路面店と異なり、多くの屋台はメニュー数を絞るため、
ラーメン店の専門店化も進んでいきました。

1939年に第二次世界大戦が始まると、多くのラーメン店は閉店を余儀なくされましたが、戦後には中国からの引揚者によって再び屋台が増加し、ラーメンは全国的な人気を得るようになります。

 

【來々軒とは】

來々軒の創業者・尾崎 貫一氏は明治43年、横浜の南京町から中国人コック12人を引き連れて浅草の新畑町3番地に來々軒をオープン。正月などの繁忙期は1日2,500人~3,000人の来客がありました。來々軒がオープンした当時、ラーメン店という業態は存在しませんでした。ラーメン店の誕生背景には、來々軒が「支那そば」、「ワンタン」、「シウマイ」という大衆的なメニューを安価に販売するという新たな業態を繁盛させ、広めたことがスタートとなります。
來々軒にまつわる文献は数多く存在します。「一日何千人かの客を迎へて居る、実に浅草名物」(読売新聞)、「支那そばで売込んだ古い店」(大東京うまいもの食べある記)、「來々軒と言へば、其の名と所在を知ってゐると言ふ全く畸型的な程、其の存在は有名であった」(浅草経済学)。これらの文献から、來々軒がいかに有名で繁盛していたかが伺えます。

 

ラーメンを構成する5大要素

ラーメンには決まりきったレシピがありません。しかし、麺、ダシ、タレ、脂/油、具材の5つの要素を組み合わせることによって、ほぼ無限のバリエーションを生み出すことができます。

 

製麺方法(縮れ・ストレート・手もみ)、小麦の種類、太さ、加水率(麺に加える水分の割合)、形状などを変化させることによって、オリジナルの麺を作り出すことができます。

 

ダシ

動物素材(豚や鶏)、海鮮素材(昆布や煮干し)、野菜素材(にんにくや玉ねぎ)などを組み合わせることで、独自のダシを取ります。

 

タレ

スープに味をつけるもので、調味料と肉や魚介のエキスを凝縮させて作ります。 醤油ダレ、塩ダレ、味噌ダレが一般的です。ダシにタレを合わせることでスープが完成します。

 

脂/油

ラーメンに欠かせない旨味の1つです。動物性油、植物性油、香味油などがあり、スープが冷めないようにふたをする役割もあります。

 

具材

具材に決まりはありませんが、チャーシュー、メンマ、ネギ、次いで煮玉子、のり、キクラゲ、もやし、なると、ほうれん草などが定番です。その他にも、ワンタン、バター、糸唐辛子、挽肉、白髪ネギ、三つ葉、コーン、角煮などを使用します。

 

カップラーメンのはじまりは

チキンラーメン
1958(昭和33)年、ジャイアンツに長嶋茂雄がデビューする年、フランク永井の『有楽町で逢いましょう』とロカビリーをBGMに、インスタントラーメンが最初の1ページを開くことになります。夏の甲子園大会は準々決勝、徳島商対魚津高が歴史的なあの延長18回時間切れ再試合を戦った8月25日。日清食品が、「チキンラーメン」を発売します。
これが、初めてインスタントラーメンの基本工程(製めん、蒸熱処理、味付け、油揚げ乾燥)を工業的に確立し、量産に成功したものとして、大評判になりました。「お湯をかけて2分間」とうたう味付即席めんは、「魔法のラーメン」と呼ばれました。すぐ簡単に食べられる画期的なこの商品が、爆発的な売れ行きを見せたのです。

 

流行語になった「インスタント」

一般的にはあまり親しまれていなかった「ラーメン」という呼称が、「中華そば」に代わって広く使われるようになったのも、「チキンラーメン」の登場がきっかけです。
また、少し遅れて1960(昭和35 )年、森永製菓から「インスタントコーヒー」が発売されて、人気を呼び、マスコミは「即席(インスタント)ラーメン」のブームと合わせて「インスタント時代」と名付けました。
各地の百貨店は「インスタント食品大会」を催し、ありとあらゆる“インスタントもの”が登場します。そしてついに、1960年から61(昭和35~36)年にかけて、「インスタント」は最大の流行語となりました。
しかし、インスタントという言葉の意味も、インスタント食品の評価基準も、まだまだあいまいなものでした。
ときに時代は、岸内閣から池田内閣へと移行し、「所得倍増」が叫ばれ、政治の季節から経済の季節へと動き始めていました。

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