三色団子やみたらし団子など、串団子をよく見てみると数に違いがあるものです。3個、4個、5個など串団子の数に違いがあるのはなぜなのでしょうか。発祥地や関西や関東の数の違いなど串団子の歴史をひも解きながら、数の違いについて。
団子と串団子の発祥地や歴史
日本で団子の原型となる食べ物が生まれたのは、1万年以上も続いて栄えた縄文時代と考えられています。当時は穀物を使った団子ではなく、どんぐりなどの木の実を粉にして作っていたようです。
その後、奈良時代から平安時代にかけて、中国大陸から米や豆を挽いて粉にしたものから作られる唐菓子が日本へ伝わります。そのなかのひとつの「団喜(だんき)」という団子に似たお菓子が団子という名前の由来となりました。
団子を串に刺して提供し始めたのは室町時代に入ってから。かつては神様へのお供え物や身分の高い人が口にするものだった団子は、江戸時代に入ると庶民の食べ物としても広く流通していくのです。
物の価格は4の倍数?関東の串団子の数は4つ!
江戸時代、関東地方でも当初は5個のみたらし団子が京都から伝わり、主流となっていました。しかし、1678年に4文銭(しもんせん)という貨幣が作られるようになると、16文、24文など4の倍数が物の価格として定着していきます。
江戸幕府
公式貨幣として採用していた寛永通宝には、元より1文銭も存在していました。しかし、お釣りが要らずワンコインで支払いが済んでしまう4文銭の登場により、串団子の数は5つから採算の合う4つに変化していったのです。
当時は
現代の100円ショップを彷彿とさせる4文銭均一の4文屋(しもんや)と呼ばれるお店まであったのだとか。現在の関東の串団子の数がみたらし団子にかかわらず、4個が主流であるのは、江戸時代の流通事情の名残ではないかとされています。
だんごの歴史
日本人が団子を食べ始めたのは縄文時代からではないかと推測されています。
当時身近にあったクヌギやナラの実(どんぐり)はアクが強いため、食べるためにいったん粉にして水にさらしました。
そのアクが取れた粉状のものを土器などで糊状の粥や団子にして食べました。おそらく団子状にしたものは食感が良く美味しかったのでしょう。
穀物を食べるようになってからも団子を食べる食習慣は捨てなかったようです。
室町時代
すでに串ざしの団子があったようで、1600年代には団子は串に5つさすのが普通でした。
団子が一般的になったのは江戸時代が安定期になった1700年代で、その頃に「花より団子」という言葉も出来ました。
花見には今でも酒と弁当などは欠かせないと思いますが、それよりも団子が主役になるほど当時流行したようです。
同じ頃、1つ1銭で1串に団子の玉が5つで売られていたものが、1760年代に4当銭の貨幣が発行され、1串に4つさすことになったと記録にあります。
「みたらしだんご」について
みたらし団子は京都市の下鴨神社(加茂御祖神社)の葵祭りや御手洗(みたらし)祭のときに、神前のお供え物として氏子の家庭などで作られたのが始まりです。
言い伝えによると、後醍醐天皇(1318-1339鎌倉末期)が境内にある御手洗池で水をすくったところ、最初に泡がひとつ浮き、やや間を置いて4つの泡が浮き上がったところから、その泡を団子に見立てて作ったという話があります。
もうひとつ別の話では、みたらし団子は人間の頭と手足をかたどったもので、これを神前に備えてお祈りをし、それを家に持ち帰って醤油をつけて火にあぶって食べ、厄除けにしたとも言われています。
もともとは小さい団子を竹串の先にひとつ、少し間を置いて4つ続けて刺した串が扇形に10本並び、団子が50個ついていたそうです。
現在の形になったのは大正の頃で、この頃に生醤油の付け焼きだけだったものを、加茂みたらし茶屋のご主人が醤油と黒砂糖を使ったたれを考え出し、子供からお年寄りまで喜ばれました。
今では京都を始め関西でみたらし団子と言えば、甘いものというのが常識です。
また、みたらし団子は温かいお菓子ですが、葵祭(5月)や御手洗祭(7月)の時に食べてきたことから、本来夏のお菓子という事がわかります。
岐阜県の高山市でもみたらし団子があります。起源は諸説あるようですが、京都の下鴨神社の団子が伝わったという事のようです。高山のみたらし団子は生醤油のみで焼くため、甘くない団子です。
これは伝わった時期が大正時代以前だったのか、または、この地方では甘い団子が好まれなかったからと思われます。
関東との違い?関西の串団子の数は3個が主流
現在の関東では串団子の数は4個が主流のようですが、関西では串に団子3個を刺して売っている串団子が圧倒的に多いのではないでしょうか。
関西の老舗の和菓子屋では、現在でもみたらし団子は5個で売られていることがあります。
関西の串団子の数
3個や5個であることが多いのは、奇数の縁起の良さがひとつの理由であるようです。奇数の縁起の意味は、割り切れない(割れない)数字として慶事に重宝されるから、陰陽道では陽を意味するからなど諸説あります。
また、有名な三色団子(花見団子)は、豊臣秀吉が開いた京都・醍醐寺の茶会で誕生したことから、京都の歴史が深く影響しているとも考えられそうです。
1串に4玉のみたらしだんごの謎
現在は京都でも、スーパーやコンビニでもみたらし団子は売られています。
しかも、それらのみたらし団子は1串に4つさしてあるものが多くなってきています。そして、一つ一つの団子が大きいのです。
これは団子の製造が機械化されているために起こっていると思います。
関東ではみたらし団子に限らず、団子は1串に4つさしてあるのがほとんどです。
機械メーカーでは当然マーケットの大きい関東向けの1串に4つの団子が作れる機械を標準で作られます。
1串に5つの小さい団子を作れる機械は特注となり値段が高くなるので、結局は1串に4つの大きい団子が付いたみたらし団子がスーパーやコンビニなどに並ぶことになると思います。
昔ながらの京都の和菓子屋では、今も5個玉で小さな玉のみたらし団子が売られています。
*大きい団子とは500円玉くらいの大きさ、小さい団子とは100円玉くらいの大きさ