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japan-eat’s blog

食に関する事や飲食店の運営に関する内容を記載してます。

食べたいお刺身!おかずにも便利なお刺身!海といえばお刺身?

魚本来の味を楽しむことのできる献立として、和食店で必ず見かけるのは“刺身”や“造り”でしょう。また、刺身と言えば、マグロや鯛など、すしと並ぶ人気メニューです。普段何気なく食べている刺身ですが、その歴史は意外と知らないという人も多いかもしれません。

お皿に美しく盛り付けられた旬の生魚が、日本料理の花形といえます。

 

刺身は、昔は「刺身」と書くことはなかった

庖丁で魚の身を切るのに「刺身」。なぜこんな名前になったのか、こういう説があります。

その昔は、切るという言葉を忌み言葉扱いにしていたから、切るの代わりに刺すを使ったという説。また、海の魚は身の左側を上にして盛るから左身、これが刺身に変化したという説など諸説があります。

一方、同じ刺身でも「指身」や「さし味」、「差味」と別の表記があったり、刺身という言葉から離れて「魚軒」や「うちみ」、「打身」という言葉も使われていました。

 

生の魚介類や肉を食べるのは世界でも珍しい?

火を通さずに魚介類や肉を食べる、いわゆる「生食」という風習は、その数は少なくても世界各国にあります。

北極に住むイヌイット(エスキモーの中の1民族)は、アザラシやクジラだけではなく、トナカイやジャコウウシなどの肉も生で食べます。

これはビタミン不足を補うためですが、極寒の地だからこその食文化であって、他の地域には広まっていません。

魚介類や肉は腐りやすいので、暖かい地域での「生食」にはやはり保存という大きな問題があり、塩漬けにするとかなんらかの保存処理が必要でした。

そのため、世界的には「生食」があまり広まらなかったのでしょう。

ところが、同じ「生食」でありながら、世界各国で食べられ始めた料理が日本発の「刺身」や「握り寿司」です。

日本は海に囲まれているので、全国で鮮度のいい魚介類が手に入っていました。

それで、「刺身」や「握り寿司」が日本で広まっていったのです。

 

江戸時代のマグロは高級品ではなかった

江戸時代には差身屋という商売もありました。江戸時代後期に出版された『守貞縵稿』で紹介されています。この商売はカツオとマグロの刺身だけを売っていて、様々なところに店があったようです。

さらにこの本には、マグロなどの刺身は「下卑ノ食」で、中級以上の饗宴には用いられなかったとされます。しかし、下卑ノ食でも美味しいものは美味しいのです。それを知っている庶民には親しまれていました。

 

平安時代、「カツオ」は堅い魚とされていた

カツオは、鰹と書きます。ではなぜ、魚偏に「堅い」なのでしょうか?実は平安時代、カツオを生で食べるのは海辺だけで、多くは煮たあとに干して都へ送られていました。干せば堅くなるので、堅魚と書き「カタウヲ」と呼んでいたのです。

それが時代を経て、偏とつくりを合わせて鰹、発音もカタウヲが変化して「カツオ」へ。文字通りの堅い魚だったのです。

カツオといえば

「カツオのたたき」。江戸時代はどのように食べられていたのでしょうか。江戸時代前期に出た料理書『料理物語』(1643年)で紹介された「小川だたき」という料理は、今はすっかり廃れた「幻のたたき」です。同書にこのような記載があります。

生がつほをおろしよくたたき 杉いたにつけ にえ湯をかけしらめてつくりたたみ候

つまり、たたいて杉板に擦り付け、お湯をかける。これではカツオの風味はお湯で流されて美味くないそう。廃れた理由はここにありそうですね。

 

刺身

主に生の魚介類などの素材に応じた切り方で小片に切って盛り付け、醤油などの調味料で味を付けて食べるものです。

その刺身には、野菜や海藻といった“つま”も美しく切り造られ、刺身に添えて盛り付け、刺身と一緒に食べるというのが今のスタイルです。

 

では、この刺身が今のようになるまでにはどのような歴史があったのでしょうか?

四方を海に囲まれた日本では、鮮な魚介類をいつでも手に入れられるという恵まれた環境にあったため、古代から鮮魚を生食する習慣があったそうです。

 

刺身やお造りのルーツとなる「鱠・膾(なます)」という料理です。

2つの漢字があるのは、獣肉を用いた物は「膾」、魚肉を用いて同様の調理をしたものは「鱠」という肉の違いによるものです。

もともとは、生肉(獣肉)を細かく刻んだものを「生(なま)肉(しし)」もしくは「なますき(生切)」と呼んでいたものが、室町時代以降になると、切り分けた獣肉や魚肉に調味料を合わせて生食する料理をさすようになり「なます」となっていったようです。

 

“酢”から“醤油”へ

現代では、なますには、お正月に食べる「紅白なます」のようにお酢が調味料として使われています。(甘酢、二杯酢、三杯酢、ゆず酢、たで酢など)

今に残るなますのように、室町時代以降に、細かく切った魚肉を酢で和えて食べるようになったとされています。

 

地廻り醤油と江戸の刺身料理

江戸時代の後期には、江戸前四大料理と言われる「蕎麦」「鰻の蒲焼」「天ぷら」「握り寿司」も完成する。これらの料理は屋台で気軽に食べられて、忙しい江戸っ子の気質と生活に合っていた。これらの料理は、上方の「下り醤油」に供給を仰いでいた江戸の醤油が、江戸周辺の醤油生産によって江戸の需要を賄うことができるようになった「関東地廻り醤油」(濃口醤油)の発展流通に大きく関係していた。
江戸では塩味調味料の醤油、江戸の味覚に合わせた「蕎麦つゆ」「鰻の蒲焼のタレ」「握り寿司のつけ醤油」など江戸の濃い味つけの料理が完成した。同時に「関東地廻り醤油」は刺身料理に使う調味料の変化にも影響を与え、現在の「刺身」が完成した。

 

刺身(さしみ)

現在の「刺身」は、生の魚を酢で食べる鱠(なます)から始まった。刺身が文献上初めて登場するのは室町時代。『鈴鹿家記』という書に「指身 鯉 イリ酒 ワサビ」と書かれており、これが刺身の最古の記録である。刺身は鱠の一種として室町時代に始まり、獣肉や魚介類を細く刻んで、生のまま酢を加えて食べたもので、鱠よりも厚く切って調味料を添えて出すものを刺身と呼ぶようになったといわれている。
刺身の語源は、切るという言葉を忌みて刺すというとか、その魚の鰭(ひれ)を切り身に刺して、魚の種類が特定できるようにしたなどの説があり、漢字も刺身のほかに、古くは指身、指味、差味、魚軒など様々な漢字が当てられていた。魚軒(さしみ)の字は、「切る」を忌み詞(いみことば)としたため刺身の意のタチミの転である「魚軒(さしみ)」の字を当てたとされている。

 

刺身につける調味料の変化

「調味料と調味の特徴:刺身の調味料は、現在醤油とわさび、醤油としょうがなどが一般的な調味料であるが、時代とともに調味にも変化がみられる。江戸時代の料理書の刺身の調味料を調査してみると、初期の料理書では、酢にわさび、しょうが、からしなどの辛みを組み合わせた調味料が多く使われている。
また、次に多く使用された調味料は煎り酒と呼ばれるもので、酒に梅干し、鰹節を加えて煮つめたものである。関東醤油が量産されて、一般に広まる江戸時代中期以降には、醤油にわさびをつけるなどの現代につながる調味が行われるようになる。」(引用:「調理と地域性」江原絢子)

 

室町時代末期

「四条流包丁書」には、鯉、鯛、鱸(すずき)を刺身としてワサビ酢、ショウガ酢、タデ酢で食べると書かれています。

また、調味料としては室町時代から江戸時代には「煎酒(いりざけ)」が加わります。

煎酒は、酒に削り鰹節と梅干を入れて煮詰め、漉して作ったものです。

さらに、室町時代の末頃から醤油の醸造は盛んになり、現代の私たちと同じように、お醤油につけて「お刺身」を食べるようになりました。といっても、まだその時代はお醤油は高級品で一部の身分の高い人のみのものだったそうです。

 

江戸時代

醤油の生産が工業化することで一般の庶民にも浸透していき、日本人の「お刺身を醤油で食べる」という文化が一気に広がっていったのです。

とはいえ、庶民が今のようなお刺身を食べるようになったといっても、刺身を食べていたのは江戸や大阪といった大都市のみで、山間部や他の土地ではあまり食べていませんでした。

江戸時代、刺身や鱠(なます)を庶民が盛んに食べるようになった。当時の生魚の食べ方としては、「鱠はショウガ、タデ、芥子、ワサビなどをつけて、酢を和して食べる」と1695年に刊行された『本朝食鑑』にある。一方、「刺身にもこの数品を用い、煎り酒を和して食べる」とある。
刺身の調味料は「酢」を主体にした、わさび酢、生姜酢、たで酢であったが、酒に削り鰹節と梅干を入れて煮詰め漉して作る「煎り酒」が加わり、さらに、江戸初期「たまり醤油」から、醤油が庶民にも普及した江戸後期には煎り酒から濃口醤油(地廻り醤油)に置き換わる。そして、江戸ではカツオやマグロの刺身を専門に扱う「刺身屋」という屋台もでるほど流行した。

 

明治後期

魚全体の消費量は現在と比べれば、8分の1程度だったです。

「魚離れ」といった言葉を聞いて久しいですが、実は現代の方が沢山食べているのですね。

多くの日本人が刺身を食べるようになったのは、第二次世界大戦後のことで、これには漁を捕獲する技術の発達、そして流通の発達の影響が大きいです。また、冷蔵庫の普及も大きな要因となっています。

冷蔵庫があるからこそ、手軽に刺身を食べることができるというわけですね。

 

関東と関西で異なる魚類のおろし方

魚のおろし方には地方性があり、江戸おろしと、関西おろしがある。
江戸おろしというのは、自分から見て、魚の頭が右、尾が左、手前に背中、向こうを腹にして、右の頭のつけ根から左に捌(さば)くのが江戸おろしである。穴子や鰻ばかりでなく、鯛なども関東は背からおろしていく。一方、関西は腹からおろしていった。

江戸おろしは、魚の表身を尊重し、魚の頭を右にして進行方向の左側を上にすると、かならず手前に背がくる。頭に近い背側からおろす、腹側からはおろさない。そういう決まりは、江戸時代に江戸の日本橋魚河岸で作られた。

 

刺身は猪口(ちょく)の醤油につけて食べた

刺身を醤油につけて食べる習慣は、文化文政に入ってから、1800年代の初め頃に出てくる。
そのころの江戸の料理を解釈した本には、『つけじょうゆをのぞきに入れて食べた。のぞきとはなんぞや』と書いてある。「のぞき」というのは、蕎麦猪口(そばちょこ)のような形で、刺身用に醤油を入れて添える小さく深い陶磁器(刺身猪口)をいう。(猪口は、陶磁器製で、猪の口に似ていることから、この名で呼ばれる)
江戸での刺身は、鯛、平目は辛味噌かわさび醤油、マグロとカツオは大根おろしと醤油で食べ、数種類のつまを組合わせていた。刺身に添えるのは、「絲切大根(大根のつま)」、千切りにした「ウド」、「生の海苔」、「浜防風」(セリの一種)、タデの芽の「姫蓼(ひめたで)」をつけたのが上等な刺身であった。安いものでは「黄菊」海藻の「ウゴ」、「大根おろし」をつけた。

 

刺身とわさびと醤油

魚の生食(刺身)は世界でも珍しく、日本特有の食文化といえる。魚を刺身で食べるには鮮度が大切であった。日本では鮮度が長持ちするよう、刺身に殺菌効果のあるワサビや醤油が使われた。
日本各地の渓流に自生するわさびは、古くから抗菌作用や消臭効果を持つ薬草として知られ、わさびは飛鳥時代から利用され、醤油は室町時代から使われ始めたとされる。江戸中期には庶民の間にも醤油が広まったが、現在のように刺身や寿司に使われるようになったのは江戸時代後期といわれている。これは江戸前で採れる新鮮な魚が江戸市中に流通し始めたこと、握り寿司が考案されたことで、江戸の町でブームが起こり、わさびが庶民の間に広まった。冷凍や冷蔵の設備がなかった時代、人々は経験からわさびや醤油が細菌やカビの増殖を抑え、食中毒の予防に役立つことを知っていたと考えられている。

 

刺身の盛り付け,つまと醤油

『守貞謾稿』の「刺身」には、「夏は血水底に溜まる故に、江戸にては、葦簾(よしず)あるいは硝子簾(がらすすだれ)を敷きて、その上にさしみを盛る」とあるように、江戸時代の錦絵を見ても、刺身とつま(海藻らしき絵)は、皿の上のクマザサの葉や巻き簾の上に盛ってあって、当時から刺身は皿からとって、調味料に漬けて食べていたことがわかる。
江戸時代の刺身には、つまを数種類組み合わせて臭みを取り、消化を促し、毒を消す効果を狙っていた。また、わさび、生姜、葱、梅干し、紫蘇、蓼、胡椒、辛子などの薬味も、古くから毒消しの効果があるとされていた。


江戸時代に「魚の毒を消す薬味」の筆頭と考えられていたのは、「大根おろし」である。元禄10年(1697)に刊行された『本朝食鑑』という食材事典には、「大根は……(中略)……魚肉の毒・酒毒・豆腐の毒を解する」という記述がある。江戸時代は、魚の毒を消す薬味として刺身に大根おろしを添えていた。そして、前述した『本朝食鑑』の醤油の項には、「一切の飲食および百薬の毒を殺す。台所には一日たりとも無くてはすませることはできないものである」と記されている。

 

マグロの刺身

マグロは現代では高級魚の感が強いが、江戸時代は、ナマよりも塩まぐろが多かった。江戸前期、マグロの食材としての評価は低いものであった。これは当時、マグロは江戸、京、大坂などの消費地から遠く離れた五島列島、三陸海岸などで漁獲され、輸送に時間がかかり、さらにマグロには脂分が多かったため、加工が難しかったからである。そのような事実から、江戸期全体を通してマグロの利用法は加工が単純な塩マグロが主流となっていた。
『江戸風俗誌』によると、「まぐろなどは、はなはだ下品にて、町人も表店住まいの者は食することは恥ずる体なり」とあり、塩漬マグロは長屋暮らしの人々や山村生活者たちの食べものだった。

江戸中期に至り、定置網漁が発達するとマグロが本格的に漁獲されるようになった。同時期に江戸近郊で関東地廻り醤油が発達し、マグロの赤身を濃口醤油に漬けて「ヅケ」で食べるようになり、マグロの消費が拡大していく。江戸末期になると、海況変化のため、紀伊半島から三浦半島にかけてマグロが大量に漁獲されはじめ、マグロは江戸前ずしの種に加わり、また刺身としても食べられようになった。
為永春水の『春色梅児誉美(しゅんしよくうめごよみ)』(天保三年,1832)に、「天麹羅か、黒漫魚(マグロ)のさしみで、油の乗った、あいさつが聞きてえの」とあり、マグロの刺身が食膳に供せられるようになった。また、『宝暦現来集』の文政年頃より天保2年までの流行の条にも「塩鮪を止めて、すき身が売れる」とあるから、この頃から、マグロの刺身が庶民の間に広がった。

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