鰹節とは鰹の身をボイルして水分を26%以下まで燻製にしたものを指します。
実はその中でも一般的に流通している「荒節」とカビを付けて熟成させた「本枯節」という2種類の鰹節があります。
そして私達がいつも食べている物は、この鰹節を削ったもので「削り節」と呼ばれます。さらに削り節の中にも薄さや加工方法によって様々な種類があります。
カツオの歴史
約8000年前の縄文時代に青森県八戸遺跡でのカツオ遺骨が発見されています。カツオは、そんな昔から食べられていました。400年代頃の古墳文化時代には、堅魚(干しカツオ)が造られ、堅魚の煎汁(いろり)が料理に使われました。701年に大宝律令、賦役令により「堅魚」、「煮堅魚」、「堅魚煎汁」、が重要貢納品と指定されます。
「堅魚」とはカツオを干し固めた物。
「煮堅魚」とは、カツオを煮てから干し堅めた物。「堅魚煎汁」とは、煮汁をさらに煮詰め調味料とした物です。
平安時代には
堅魚や煮堅魚、堅魚煮汁を貢納する国が指定されます。堅魚は、伊豆、駿河、志摩、相模、安房、紀伊、阿波、土佐、豊後、日向です。また、煮堅魚は、駿河から。堅魚煮汁は、駿河、伊勢から貢納されました
鎌倉時代には
「廚事類記」に鰹(干しカツオ)、鰹煎汁の料理が記載されています。これらの時代、堅魚煮汁がもっとも重要視されています。料理に使う調味料としてなくてはならない物になっていました。堅魚煮汁は、とても古い歴史を持った調味料と言えます。
堅魚から鰹節へ
燻乾の起源としては
インドネシア方面からから貿易船に乗ってやって来たという説もあります。琉球船が盛んに東南アジアを交易し魚を燻乾する方法を南西日本に伝えた、もしくは持ち帰った可能性があるということです。東南アジアは、魚を燻乾する習慣が、古くから多く存在していたり、カツオの煎汁を魚醤と共に調味料とする習慣も持っているためです。カツオを燻し固めたものが、今の荒節のような痛みにくい形になるのは、江戸時代に入ってからになります。
鰹節荒節へ
これまで造られていた鰹節は長く日持せず遠くまで運ぶのに適していませんでした。江戸時代に入ると、この鰹節の改良が進んで行きます。それまでのワラなどを使った燻乾法から木(クヌギ、樫)を使った燻乾法が考え出されます。
初めて考え造り上げるのが、紀州印南(和歌山県熊野印南浦)の漁師勘太郎だと言われています。これが今に言います”荒節”となり現在のような固乾法の製造となります。これ以前にも乾燥を急ぐため火熱を用いて造った鰹節があったそうですがやはり日持ちしなかったようです。
江戸時代後期から明治時代になると土佐、薩摩、伊豆節が3代名産品として全国に広まって行きます。伊豆節は、土佐節をさらに改良し燻乾に時間をかけ、カビ付けも4回以上行い本枯節を造り上げて行きます。
明治36年までには、鰹節製法は、本枯節が主流となります。
また、「勝男武士(かつおぶし)」「勝つ魚(かつお)」に由来することから、出産の内祝い、七五三、入学の内祝い、快気祝い、新築祝いなど、お祝いの贈物によく使われます。
伊豆田子節歴史
田子地区で鰹を加工して造っていたもっとも古い証拠となるものは、733年(天平5年)に奈良の朝廷に「堅魚」を送った木簡が平城京跡(平城宮)から見つかっております。
1801年土佐から土佐節製造法が伝わるります。伝えたのは土佐の与市です。もともと紀州印南浦の漁師ですが伊豆に来る前は安房の千倉で土佐節を教えています。
土佐の与市
土佐の与市は、隣村の安良里で3年間鰹節製造法を指導します。この時、燻乾法の改良などが行なわれました。これは、土佐節をさらに改良した改良節で、長期にわたり保存がききます。これにより伊豆節が一応出来上がりることになります。伊豆田子節は、土佐の与市からの直伝となりこの後もかび付けを何度も繰り返して鰹節を乾かす方法か考案され、鰹節の改良が進んで行きます。
「手火山式燻乾法」とは
カツオの味を鰹節の中に閉じ込め燻し乾かす製法で強い火を使い味を凝縮させます。カツオ・鰹についてカツオを使った料理方法は、古来より多くあり文献もたくさん残されております。これには、カツオが日本で沢山取れたことも一つの要因ですし、カツオは、煮ると堅くなるという特長があるため保存食として加工しやすかったためだと思います。
昔から日本料理に無くてはならない食材であり、とても重要視されています。 これは、鰹節が料理を美味しく仕上げてくれるためです。鰹節を使いおだしを取るという調理方法も日本独特のものですが、日本人の味覚が鰹のだしが無いと物足りなく感じてしまうことと、鰹が保存が利くことがあげられると思います。
さらに、体内では合成できない必須アミノ酸9種類すべてを含むことから、良質なたんぱく質だといえます。