日本でふぐは縄文時代から食べられていましたが、豊臣秀吉の治世に、ふぐ毒による中毒死が続出したため「河豚食禁止令」が出されたと言われています。
解禁されたのは初代内閣総理大臣・伊藤博文公が下関に訪問したのがきっかけです。
宿泊所であった春帆楼が、魚が取れず打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出しました。
出されたふぐを食べた伊藤博文公は、感嘆し、明治21年(1888年)に山口県令(知事)に働きかけてふく食が解禁されました。
2018年はふく食解禁130年という記念の年となります。
- ふぐ毒の正体とは
- ふぐの毒性についての研究
- 「テトロドトキシン」とは
- なぜふぐは毒をもつのか
- ふぐの毒は後天的なものだった
- ふぐにとってなくてはならない「毒」
- ふぐ毒の症状
- ふぐ中毒の処置
- ふく食の禁止と解禁の歴史
ふぐ毒の正体とは
ふぐは種類ごとに有毒部位が異なり、個体差、季節や海域によっても毒性の強弱が異なる謎の深い魚です。
ふぐの体内には、微量の「サキシトキシン」や、ハコフグには「パフトキシン」という別の毒も存在していますが、一般的にふぐ毒と言えば「テトロドトキシン」のことを指します。ほとんどのふぐ毒被害は、このテトロドトキシンによる神経麻痺でしょう。
ほんの2mgで人の命を奪ってしまう猛毒「テトロドトキシン」の正体を紐解いていきます。
ふぐの毒性についての研究
ふぐ毒研究の歴史は、中毒死が一気に増加した江戸時代(1603年~1868年)から始まりました。
熊沢猪太郎著「武将感状記」(1716年)や香川修徳著「本堂薬選」(1729年)に、ふぐの毒性を調べる人体実験の研究結果が載っています。
しかし、本格的な研究が始まったのは、明治10年(1877年)頃と言われています。
それでもまだ当時の研究対象は、卵巣など一部の有毒臓器にほぼ限定されていました。
ふぐ全体に関する詳細な研究が進められるのは、さらに後のことです。
明治42年(1909年)に、薬学者である田原良純博士は世界で初めてふぐ毒の抽出に成功します。
ふぐの卵巣より抽出されたこの毒は「テトロドトキシン(tetrodotoxin)」と命名されました。
その後昭和10年代に入ると、ふぐ毒の研究者である谷巌博士と福田得志博士の両名によって「日本産フグの中毒学的研究」が行われ、ふぐの毒性について次のような驚くべき新しい発表が出ました。
- ふぐの種類によって毒性は異なり、部位ごとに毒の有無が分かれること。
- 臓器では卵巣と肝臓の毒性がとくに強く、皮と腸がこれに次ぐこと。
- 古来より猛毒として扱われていた血液が、実際には無毒であること。
ふぐの種類と臓器ごとに毒性の強弱が一覧化され、今日のふぐ料理の発展と中毒防止に大きな役割を果たしています。
「テトロドトキシン」とは
その細菌は食物連鎖により濃縮され、ヒトデや貝類、藻などを介してふぐの体内へ入り蓄積し、増殖しながらテトロドトキシンを産生するのです。テトロドトキシンは、6時間以上煮沸してようやく破壊され始めるほど耐熱性(熱に対する抵抗性)に優れています。
無味無臭、無色のテトロドトキシンは、人体に入ると神経伝達を阻害、遮断するため、身体のあらゆる部分に麻痺を引き起こします。
ふぐの種類によって差はありますが、テトロドトキシンに対する抵抗性が他の魚より強いと言えます。
例えば、仲間同士の噛み合いにより、多少の毒を摂取しても死には至らないそうです。
理由のひとつとして、神経伝達の経路で、ふぐの細胞とテトロドトキシンは結合しにくいためと考えられています。
なぜふぐは毒をもつのか
驚くべき事実ですが、孵化したての赤ちゃんふぐは、体内に毒をもちません。ふぐの毒は生まれつきではなく、餌から摂取し体内に蓄積される後天的なものだと考えられています。
また、夢のふぐ無毒化への研究段階で、ふぐに毒は必要なものだった、という摩訶不思議な結果が発表されました。
ふぐの毒は後天的なものだった
養殖のふぐの中には、毒のないふぐがいます。
あまり知られていませんが、ふぐは生まれたときには毒をもっていないのです。
海洋細菌が食物連鎖の中で濃縮され、ふぐの餌である海老や貝などを介して毒性物質を体内に取り込み、生物濃縮によりふぐ本体へ蓄積されていくことがわかっています。そのため、理論上養殖のふぐに海洋細菌が含まれていない餌だけを与え続けると、毒をもたないふぐが育つのです。しかし、簡単に無毒のふぐを養殖できる訳ではありません。
完全に外海と切り離された養殖場で育てなければ、無毒のふぐにならないからです。
一般的な外海に接した養殖場では、毒性を含む藻などから毒性を摂取する可能性があります。またこの養殖方法は、完全に無毒化できると確立されたものではないので、残念ながら実用に至っていません。
万が一ということがあっては、取り返しがつかないからです。
ふぐにとってなくてはならない「毒」
ふぐに毒がなかったら、もっと手軽に安心して美味しいふぐ料理が食べられるでしょう。
無毒のふぐを養殖できればと、長崎の大学で研究が繰り返されてきました。
理論通り、餌に気をつければ無毒なふぐは養殖できるようです。
しかしおもしろい実験結果として、無毒なふぐはストレスを受けやすく病気になりやすいことが分かりました。
無毒なふぐと有毒なふぐを一緒に飼育すると、無毒なふぐが有毒のふぐに噛み付きます。
それはストレスもありますが、無毒のふぐが有毒のふぐに噛み付くことで、積極的に毒性を体内に取り込もうとしているという見解もあります。
またふぐの毒はフェロモンの代替になっているため、無毒のふぐは有毒のふぐに引き寄せられるそうです。
体内に毒のないふぐは異常行動を起こすこともあり、不思議な行動は飼育の手間を増やしコストがかかることが難点です。
その上、絶対安全な無毒のふぐとして流通できる保証がないので、養殖する側としてもあえて無毒化したふぐを育てようとしていないのが現状のようです。
一部なんとか無毒化のふぐを安定供給し、肝を特例で食べられる許可を得られるか働いている自治体もありますが、許可には至っていません。
ふぐの健康管理の面からみても、無毒であることのメリットは少ないのです。
ふぐ毒の症状
神経伝達が阻害されると、脳から身体へ大切な指令が届かないので、麻痺や呼吸困難を引き起こします。中毒症状は、早い時は食後30分程で発症することもありますが、通常は1時間から6時間前後で発症すると言われています。初期症状では、吐き気、嘔吐をもよおし指先や口の痺れを感じます。
軽症の場合はこれらの症状でおさまりますが、ふぐ中毒の場合、中毒量と致死量が極めて近似しているため一気に症状が進行することも多いようです。
よく酔っている状態と間違われることがありますが、早期に中毒症状を見極め対処しなければ死亡率が高くなります。ふぐ中毒が中等度になると、身体全体が痺れてきて、身体を動すことや、歩行が困難になります。
その後顔面の麻痺も進行し、舌神経の麻痺で言語障害や嚥下困難もあらわれます。さらに重症になってくると、全身の運動麻痺が起り、呼吸筋の麻痺によって呼吸障害と意識混濁を引き起こします。
そして終には、意識がなくなり呼吸が停止して死に至ります。
摂取した臓器の毒力や量にもよりますが、食後8時間以内にこのような経過を辿って症状が進行します。
ふぐ中毒の処置
また解毒剤もありません。
ですから毒を含有する部位を食べた場合は、必ずといっていいほど中毒になります。そのため、万が一中毒になってしまったらあとは対処療法しかありません。
摂取量にもよりますがふぐ毒は症状の進行が早いため、食後できるだけ迅速な応急処置が鍵となってきます。
中毒に気がついたら、一刻も早く摂取したものを吐き出させ、医療機関へ連絡することです。また死亡の原因は呼吸困難にあるので、人工呼吸などの人為的な方法で呼吸を確保することが最も効果のある延命処置になります。
食後7時間以内に上記のような対処療法を行うと、その時間が後の経過に大きく影響するという報告もあります。
おかしいなと思ったら、酔っ払っているのかと放っておくのではなく中毒の可能性を疑い、早めの対応を心がけるようにしましょう。このような猛毒のあるふぐを調理するには、専門の資格が必要です。
またふぐは、種類によって有毒部位が異なる複雑な魚です。
ふぐが釣れたとしても、素人が手を出して自力でさばくことは絶対にやめましょう。
ふく食の禁止と解禁の歴史
縄文時代
ふぐは縄文時代から食べられてきた食材で、縄文時代の貝塚から、多数のふぐの骨が発掘されています。
安土桃山時代
豊臣秀吉が文禄・慶長の役(1598年)の際、ふぐを食べて死ぬ者が多かったため、「河豚(ふぐ)食禁止令」を出したといわれる。これ以後、ふく食が禁止されていく。
江戸時代
江戸時代に入ると、藩によっては藩士にふく食を禁じ、また庶民の間でも、自発的に口にしない人が多かったようです。ところが、下関では江戸時代を通じて日常的にふぐを食べていました。その光景は下関を訪れる旅人を驚かせていました。
幕末の下関の勤皇商人・白石正一郎の日記には、ふぐを酒の肴にしたことや、小倉藩にふぐを送ったことが記されています。また、ふぐの調理についても触れており、皮や骨をとり、身だけにして食べてたことがわかります。
明治時代
明治時代になると全国的に生ふぐの販売が違警罪として禁止され、下関でもふぐを食べることが難しくなりました。
ふく食の解禁
明治時代に入ると全国的に生河豚の販売が禁止され、下関でもその美味しさを愉しむことがことが難しくなりました。〈明治15年(1882年)違警罪〉
ところが、初代内閣総理大臣・伊藤博文公が、下関を訪問し、春帆楼に宿泊した折、あいにく時化(しけ)のためまったく魚が獲れなかったので、女将は罰を覚悟でふくを御膳に出したところ、その美味を「一身よく百味の相をととのえ」と感嘆。
伊藤博文公は山口県令(知事)に対してふく食解禁を働きかけ、明治21年(1888年)から下関では大っぴらにふくが食べられるようになったということです。これにより、春帆楼は、ふく料理公許第一号店となりました。
その後、ふく料理は全国に広がりました。