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japan-eat’s blog

食に関する事や飲食店の運営に関する内容を記載してます。

日本の外食産業の歴史

諸説あるようですが、日本の外食産業のルーツは江戸時代と言われています。
ちなみに「外食産業」という言葉は日本初のファミリーレストランが開業され、
ここから本格的な飲食店の展開が始まった1 9 7 0 年から使われるようになったようです。

しかし、今のような飲食店がいきなり登場したわけではなく、
生の食材や調味料、調理済み食品を売り歩く商品を天秤棒にぶら下げて売り歩く振売りというものから、
加熱調理をした料理を提供する焼売(やきうり)・煮売(にうり)屋が始まりとされています。
そして、外食の文化が発展していく始まりとして、
江戸時代前期に浅草の茶屋(今でいうカフェにあたるもの)で、
茶飯や汁物、煮豆、お煮しめなど等をセットにした、定食のようなものを
「奈良茶飯」として売り始めたのが、飲食店という形態のきっかけとされています。

 

昔の日本人は何を食べていたの?

奈良茶飯が飲食店の始まりとして蕎麦屋など様々な業態の飲食店も増えました。
そして、江戸時代中期の頃には、地方から多くの職人たちが職を求めて江戸に流入してきたことにより、
人口がどんどん増え始めました。
その中で、働く職人たちはお腹が減ることを紛らわすために、
複数回に分けながら間食をするようになり、この需要に反応し誕生したのが、屋台です。
今でも食べられている握り寿司や天ぷら、ウナギなども初めは屋台で食べられていて、
今でいうファストフードのような立ち位置で広がっていきました。

 

ではここでは、和食の代表格である「握り寿司」について。

しかし、江戸前寿司と呼ばれる昔の握り寿司は、シャリがなんとおにぎりくらいの大きさで、
保存技術が低い当時、ネタは生ではなく、ヅケや酢で洗うなどの下ごしらえをしてあるものを使っていて、今の寿司とは全く違うもの でした。
また、当時は今人気な「サー モン、ウニ、いくら」などは食べられることがなく、今では寿司の定番とされているマグロに関しては脂身が多いという理由で低級のものとして扱われ、中トロや大トロ部分は捨てられていたようです…。


その後、時代が経つにつれて冷凍技術などの技術が発達し、食べられるネタの幅も広がり、
今の握り寿司のかたちになっていきました。

 

どんなお店があったの?

簡単な外食の手段としては、食べ物を売り歩く「振り売り」や「屋台見世」がありました。貞享3年(1686)には、蕎麦切りや火を持ち歩く商売を取り締まるお触れが出されていますから、それなりの数のお店があったのでしょう。

また、1694年に刊行された井原西鶴の「西鶴置土産」には、浅草の奈良茶飯のお店が出てきます。一般的には、これが料理屋の始まりだと言われているようです。ちなみに、奈良飯とは、奈良名産の茶飯を中心とした定食セットのようなものです。

 

高級料亭も出現

宝暦から明和のころには、本格的な料亭の開業が始まります。かなりの高級店も姿を現し始め、明和8年(1771)に深川洲崎にオープンした升屋は、料亭の元祖と呼ばれ、献立もかなり充実していたとの記録が残っています。

それからまもなく、料亭の八百膳が営業を始めますが、とても高級なことで名を馳せていたようです。

文政5年に出された「明和誌」には、「いづれも上品にして値高事限なし」との記述があるようです。時代劇に登場するお代官様と越後屋が密会するような場所は、江戸にはたくさん実在していたのでしょう。

外食産業の発展は、食文化の発展にもつながり、江戸時代には握り寿司や天ぷらなど、新しい料理が次々と生み出されていったのです。

 

食の多様性が広がる時代へ!

江戸時代から始まった外食の文化。
そこから明治時代の文明開化がきっかけで外国の文化も入ってきたことにより、食文化もどんどん変わっていき、今では和食だけではなく「イタリアン、フレンチ、中華」など幅広い食文化が日本にはあります。
昔は富裕層しかできなかった外食も、ファミリーレストランの普及などにより、 リーズナブルに外食を出来るようにもなりました。
さらに業態が増えるだけではなく、宅配サービスが始まり、自宅で手軽に飲食店の料理を楽しめる等、昨今は食事方法においても発展しています。
また、低温調理や液体窒素を使った分子ガストロミーといった、昔では考えられなかった新しい調理法ができるなど、さらなる調理技術の進化・発展により、日本の外食産業は今後もどんどん盛り上がっていくことでしょう!

 

江戸外食文化の始まり

日本の外食文化は、江戸時代前期に起こった浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まり、後期には八百善のような高級料亭も誕生するようになった。江戸の外食産業の始まりは、天秤棒で商品をぶら下げて売り歩く「振売り(ふりうり)」と、加熱調理をした飲食を提供する「焼売・煮売屋(にうりや)」であった。

続いて、振売りから発展した料理を提供する「屋台」(持ち歩き形式)や店舗を構え商品を提供する「煮売茶屋(にうりちゃや)」と呼ばれる形態ができ、煮売茶屋がさらに発展して「料理茶屋」になり、この料理茶屋がさらに、贅(ぜい)をこらした高級料理茶屋の「料亭」へと進化した。

 

江戸時代初期

江戸の町には飲食店がなく、飲食店が現れ始めたのは明暦の大火(1657)年以降といわれている。井原西鶴の『西鶴置土産』によると明暦の大火後、浅草金竜山〈待乳山〉門前の「茶屋」が緑茶で炊いた奈良茶(茶飯、豆腐汁、煮染、煮豆など)を器に盛って客に供した茶漬飯を「奈良茶飯(ならちゃめし)」と名付けたとある。

この後、江戸市中に多くの奈良茶茶屋(ならちゃぢゃや)が広まった。一般的に奈良茶茶屋が「料理茶屋」の元祖といわれている。

「奈良茶飯」の飯屋ができ、続く寛文四年(1664年)頃には、麺にした蕎麦を食べる「慳貪(けんどん)蕎麦切」、浅草寺の境内には「正直蕎麦」という蕎麦屋ができた。屋台の始まりは、江戸の享保年間(1716〜1736)で、天明年間(1781〜1789)以後、さかんになったと言われている。

屋台から店内で飲食させる「居見世(いみせ)」が現れ、蕎麦屋、 鰻屋(蒲焼き)、鰻飯屋(丼飯)、すし屋、天ぷら屋などの外食店ができた。

ちなみに、うなぎを蒲焼きで食するようになったのが元禄時代(1688~1703)以降、天ぷらの串揚げは天明年間(1781~89)に登場し、安政期(1854~1859年)の頃には、店構えの天ぷら屋が現れ、料亭でも「天ぷら」が出されるようになる。

江戸前握りずしは文化・文政期(1804~30)に江戸の町に登場したといわれている。

 

明暦の大火」と外食産業の基盤の誕生

江戸は267年の町に49回の大火に見舞われているが、その中でもっとも被害か甚大だったのが4代将軍家綱の時代の『明暦の大火(振袖火事)』であった。明暦三年(1657)1月18日未の刻(14時ごろ)から2日間にわたって燃え続けたという。

大火は本郷・小石川・麹町の3ヵ所から連続的に火災か発生し、瞬く間に広がった。江戸城の本丸・天守が焼け落ち、外堀以内のほぼ全域を焼き尽くし、江戸市中の大半を焼失した。死者数は諸説あるが、3万から10万人と言われており、江戸史上屋大の火災となっている。

当時の江戸の町人人口は、明暦三年(1657)に約28万人と推定されている。これに武家人口50万人を加えると、江戸の総人口は約78万人となる巨大都市だった。(享保六年(1721)には、町人人口が約50万人、武家人口50万人で、江戸の総人口は約100 万人となる)

明暦の大火後、大火に対する都市防火政策の一つ として火除地(ひよけち)が設置された。火除地と同様に、防火目的として「広小路、広道、火除堤」なども設けられた。

都市防火政策の火除地が江戸城や幕府の重要施設、大寺院を大火の延焼経路から遮断するように配置されると、当初は空地として防火機能 に特化した空間であったものが、徐々に茶店や見世物等の諸施設が設けられ、庶民が商業や娯楽等の場として複合的に利用するようになった。

 

屋台を利用する人々

江戸は参勤交代の武士やその奉公人・出稼ぎ人などの独身男性の多い町(男女比は男性が女性の1.5倍)であり、すぐに食べられ小腹を満たす安価な蕎麦などの手軽な屋台料理などの外食が発達した。
江戸の町の庶民の多くは長屋住まいである。寛文四年(1664)の『昔々物語』には「けんどん蕎麦切り」というものが出来て下々の者(庶民)はこれを買って食べたが、貴人(富裕層)には食べる者がないという記述があり、長屋住まいの庶民に屋台料理が定着していた様子がみられる。
屋台で食べる立ち食いであった鮨(4~8文)や天ぷら(1串4~6文)、天秤棒で屋台をかついで来て食べさせた蕎麦(一椀16文)、家で焼いて岡持(おかもち)という手桶に入れて売り歩くうなぎの蒲焼き(1串16文)。これらの外食文化をつくったのは、馬子や陸尺(駕籠を担ぐ人足)、日雇いなどの力仕事に従事するその日暮らしの庶民であった。

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