ワインと言えばシャトー・ムートン・ロスチャイルドの名前がよく出て来ます。
今回はそんな一流ワインの紹介です
CH. MOUTON ROTHSCHILD
フランス ボルドー地方ポイヤック村
五大シャトーの中でも特に明快かつ豪勢なシャトー
シャトー・ムートン・ロスチャイルドを知るためのポイント
1、不変の格付けを覆した唯一のシャトー
1855年にパリ万博に際して制定され、今なおボルドーワインの指針として存在するメドックの格付けです。今変更されたら、すごいことになると思いますが!
150年以上の歴史の中で唯一格付け変更が許されたのが、このシャトー・ムートン・ロスチャイルドです。
ロスチャイルド家がシャトーを買収したのは、1853年だそうです。
一級を取るに値すると評されていましたが、二級に格付けされてしまい、当時、フィリップ男爵は『一級にはなれないが二級には甘んじれぬ、ムートンはムートンなり』と言い、昇格するため並々ならぬ努力を重ねました。
そして格付けから118年後の1973年、4世代に渡る努力の末、シャトー・ムートン・ロスチャイルドは100年以上も変更されることのなかったメドック格付けの不問律を破り悲願の第一級昇格を果たします。その時、フィリップ男爵が残した『われ一級になりぬ、かつて二級なりき、されどムートンは昔も今も変わらず』という名句はあまりにも有名です。最高を目指すためにあらゆる努力を惜しまない、この姿勢こそがシャトー・ムートン・ロスチャイルドのスタイルとも言えます。
2、ワイン史に名を残す偉人達
シャトー・ムートン・ロスチャイルドほど、オーナーたちの逸話が語られるシャトーはありません。その歴史において、強烈な個性をもつ歴代のオーナー達が、天賦の才能と努力によってその名声と価値を高めてきました。
その筆頭が、弱冠20歳でシャトーを継ぐことになったフィリップ男爵です。
パリで暮らしていた彼がボルドーのシャトーを継ぐことになった時、最初に行ったのは何世紀もの歴史を持つ中間業者による瓶詰制度を廃止し、シャトー元詰めを始めたことでした。今では当たり前に行われているこの手法によって、ワインの質は劇的に向上し、他のシャトーが追随することになりました。また、セカンドワインの始まりと言われる『ムートン・カデ』を生み出し大成功。フィリップ男爵は1988年に亡くなるまでの60年間以上に渡り、シャトー・ムートン・ロスチャイルドの品質の向上に尽力し、その繁栄を築き上げました。また、父の亡き後シャトーの運営を任された一人娘、フィリピーヌ男爵夫人は、舞台女優としての芸術的センスと人脈を生かしてキース・へリングやフランシス・ベーコンといった当代の気鋭芸術家にラベルデザインを依頼し、アートラベルの新時代を築きあげました。
また、フィリピーヌ男爵夫人は醸造施設の刷新に加え、いとこであり、ライバルであるラフィット・ロスチャイルドのエリック・ド・ロスチャイルド男爵と共に、ロスチャイルド一族の名を冠したシャンパーニュ「バロン・ド・ロスチャイルド」をリリースし、2013年にはマスター・オブ・ワイン協会から女性として初めてのライフタイム・アチーヴメント賞を受賞するなど、ワイン界に多大なる影響を与え続けた女傑として知られています。
3、アートラベル
シャトー・ムートン・ロスチャイルドといえば、毎年変わるアートラベルにコレクターが多いことでも知られています。シャトー元詰めが始まった記念すべきヴィンテージである1924年に描かれたのが、ポスター作家ジャン・カルリュによるラベル。その20年後、第二次世界大戦が終わりフランスが解放された1945年には、チャーチルのVサインを表すラベルが選ばれました。
なお、ラベル製作者には、その報酬がムートンのワインで支払われているということです。
シャトー・ムートン・ロートシルトのワインの特徴
シャトー・ムートン・ロートシルトの畑は、フランスのボルドー地方メドック地区のやや高地になっているオー・メドック(「オー」はフランス語で高いという意味)の中のポイヤック村にあります。
ポイヤック村は、シャトー・ムートンロートシルトを含め、メドック格付けの1級のシャトーを3つも有することでも知られていますが、小粒の砂利の混ざった砂質の土壌で、カベルネ・ソーヴィニヨンの栽培に適しています。そのため、ワインも、カベルネ・ソーヴィニヨンの比率が約80%と最も高くなっています。
また、低温マセラシオン(ブドウの色素やタンニンなどの成分を抽出させるため、果汁に種や果皮を漬け込むこと)や、フレンチオーク樽での熟成など、独自の手法でワイン造りを行っているため、見た目は濃い紫色で、ずっしりと重く、タンニンがしっかりと感じられるワインに仕上がっています。
また、長期熟成を経て、さらに偉大なワインになるポテンシャルを含んでいます。
英語での説明を選んだので、アメリカの方々と一緒にツアーみたいな感じで一緒に回りました。全然わからなかった、帰って来てから、フランス語にすればよかったと反省。