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japan-eat’s blog

食に関する事や飲食店の運営に関する内容を記載してます。

かき氷について考えてみた「修正」

夏のおやつといえばかき氷!

7月25日は「かき氷の日」です。かき氷は「夏氷(なつごおり)」とも言い、「7(な)2(つ)5(ごおり)」という語呂合わせと、昭和8(1933)年7月25日に、山形市で40.8℃の日本最高気温を記録したことに因み、日本かき氷協会により記念日に制定されたそうです。

 

 

かき氷の歴史

かき氷の歴史は意外と古く、平安時代にまで遡ります。

清少納言の『枕草子』には、あてなるもの(=上品なもの、良いもの)の段に「削り氷にあまづら入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」
訳:細かく削った氷に甘いつゆをかけて、新しい金の椀に盛りつけたものと記されていますが、この「削り氷」が、今のかき氷のこと。

冷凍庫のなかった当時は氷は貴重品で貴族しか口にできないもの。しかも甘葛(あまづら)は砂糖のなかった平安時代、最高の甘味料でした。清少納言が食べたかき氷はとても高級で贅沢だったということになります。



そして江戸時代

この頃には、氷を保存する技術も発達して夏でも北国の氷を江戸まで輸送することができるようになります。
しかし、高級品であることには変わりなく将軍家や大名、豪商しか口にすることはできませんでした。

なお、奈良時代にはすでに氷室があり、天皇への献上品として氷を利用する制度がありました。江戸時代には、加賀藩が冬期に切り出しておいた雪氷を、毎年6月1日に将軍に献上していたことが記録に残っています。

明治時代に入ると製氷機が開発されたこともあり、庶民も氷を手にすることができるようになります。
しかし、今では当たり前のかき氷機(氷削機)はなく、鉋で小さく削ったものを食べていました。
今のようなかき氷の形になったのは明治20年。村上半三郎氏が発明したかき氷機によって薄く削った氷を食べられるようになりました。

それからさらに技術が進化して、現在ではふわふわとした舌触りの滑らかな氷を食べられるようになりましたが、基本的な形は明治時代から大きくは変わっていないといえます。



アメリカの氷が横浜に到着

横浜港が開港した江戸時代の末期、アメリカのボストンから氷を輸入したアメリカ人がいました。出発から半年以上もかけて、アフリカを経由して横浜に到着した氷は、みかん箱ほどの大きさで、3両もしたと言われています。

この氷に注目したのが、中川嘉兵衛さん(なかがわかへえ)です。

三河国出身の中川は、横浜で英国公使・オールコックのもとでコックとして働いたのち、牛肉や牛乳を扱う店を開業しました。中川は、東京で最初の牛肉店を開いたり、イギリス兵から学んだパンを売り出すなど、幅広く商売をしていました。来日した宣教師に、医療や食品の保存に氷が有益であると教わった中川は、天然氷の製造・採取と販売の事業化を図り、各地で天然氷づくりを試みました。

 

 

かき氷のとは?

冷凍庫のなかった時代、夏の氷は貴重品でした。そこで、氷の欠けた部分を使って削って作りました。つまり「欠けた氷」(かけごおり)から「かき氷」になったという説や、手で氷を掻いて食べたから「かき氷」という説もありますが、欠けた氷から「かき氷」になったという説が有力なようです。

 

日本初のかき氷屋がオープン!

文久2(1862)年の夏、箱館や諏訪湖から氷を運び、横浜の馬車道通りに日本で最初のかき氷屋「氷水屋」をオープンさせました。店をはじめた当初は、「腹に悪い」という噂のせいでなかなか売れなかった氷水(こおりすい)でしたが、ひとたび安全だと分かると、夏の暑さもあって爆発的に売れました。1杯2文で、2時間並ばないと買えないほどの人気だったそうです。

中川は、富士山麓、諏訪湖、釜石、秋田、青森などで採氷し、横浜に運ぶことを試みましたが、いずれも失敗に終わりました。それでも中川はあきらめず、全財産をつぎ込み、北海道に渡ると、函館・五稜郭の堀にできる氷に着目。明治2(1869)年の函館戦争から1年後に、北海道開拓使・黒田清隆から五稜郭における7年間の採氷専守権を獲得しました。

明治3(1870)年には、五稜郭に製氷場を設けて本格的に生産を始め、「箱館氷」を販売しました。「箱館氷」は、輸入氷よりも安くて良質であったことから人気を得、外国企業との競争に勝ち抜き、宮内庁御用達にもなりました。

アイスクリーム第1号はかき氷屋で販売

本格的なかき氷店ができたのは、明治2(1869)年6月のことです。横浜馬車道通に、町田房造さん(まちだふさぞう)が「氷水店」を開き、「氷水(こおりすい)」や「あいすくりん(アイスクリーム)」を販売しました。これが日本のアイスクリームの第1号と言われていますが、最初のものはシャーベット風だったそうです。

当時28歳だった町田さんは、勝海舟の生きざまに傾倒して2度渡米し、氷の製法、マッチの製法、石鹸の製法、そして造船用鋲製造法を学んで帰国していました。アイスクリームは値段が高く、はじめは、外国人がたまに立ち寄る程度で、あまり売れなかったのですが、翌年4月の伊勢山皇太神宮の大祭で再挑戦し、日本人の客も入るようになったと言われています。



人工氷の製造と氷削器の開発で、夏には欠かせない存在に

製氷技術の発達とともに、かき氷が庶民の間にも広がっていきました。明治16(1883)年、京橋新栄町の東京製氷株式会社ができ、アンモニアを使った氷製造が開始されました。この機械はアメリカ人の監督のもとに買い入れたもので、旧式のために不都合も少なくなかったようです。明治21(1888)年になり、新しい機械を購入したことで事業が拡大。製氷技術については、明治30(1897)年頃以降は機械製氷が主流となりました。

また、明治20(1887)年には、村上半三郎さんが氷削機(ひょうさくき)を発明し、特許を取得します。しかし、氷削機が一般化するのは昭和期に入ってからであり、それまでは、台鉋を用いて削る方法が一般的でした。 このようにして、氷水はさらに普及し、明治20年代頃には、夏には欠かせないものとして庶民に親しまれるようになりました。

メディアに見る明治時代の氷水店

出前もあった!?

『明治の光』に、氷水を売る露店の風景の挿絵が掲載されています。左端の女性は岡持ちを持っているので、近くに出前に行ったのかもしれません。店では主人が作業をしています。氷の塊を白い布に包んで小槌で打ちくだいてコップに入れ、水を注ぐだけのもので、蜜は入っていたかもしれませんが、まだ、かき氷のようなものではなかったようです。

 

かき氷の売り子もいた!

夏の世渡り阿波徳島に於いて所見(部分) 『風俗画報』明治31(1898)年8月10日号
『風俗画報』(明治31(1898)年8月10日号)に掲載された挿絵「夏の世渡り 阿波徳島に於いて所見」のように、竿を担ぎ、「ぶっかき氷〜」と売り声を上げながら売り歩く「氷売」もいました。暑い夏のこの売り声は、庶民にとって何よりもうれしいものだったことでしょう。

ところで、氷水は夏だけであり、『東京風俗志 中巻』によると、「氷水商売は夏商なれば、多く焼藷屋、汁粉屋、水菓子屋などの一時これに転ずるも多く…」とあります。

 

 

関東vs関西 かき氷比べ

かき氷といえば、こんもりと盛られた氷にたっぷりのシロップをかけたものを思い浮かべますが、関東と関西ではちょっと違っていたという記録があります。
『東京と大阪・「味」のなるほど比較事典』(前垣和義著:PHP研究所)によると、
昔、東京のかき氷といえば

まず器にシロップを入れ、その上に氷を削る。

上にかけるシロップはあくまで少量。
氷の上にシロップをたっぷりかけてしまうと氷の山が崩れて形が悪くなるから。ということですが、現在の東京では、ほとんどのかき氷がシロップをたっぷりかけた形になっているようです。

「関東では氷を粗く削るが、関西(特に京都)では薄く削る。

味の好みに加え、関東の方が氷が豊富だったから」という説もあるようですが、こちらは真偽の程は定かではありません。

誰かに話したくなる「かき氷」のヒミツ

「かき氷の日」があること、ご存じですか。

かき氷は別名「夏氷(なつごおり)」。
そこで、「な(7)・つ(2)・ご(5)おり」の語呂合わせから、日本かき氷協会が7月25日を「かき氷の日」に制定しました。

実は、7月25日になった理由がもう一つあります。

それは1933(昭和8)年のこの日、フェーン現象によって、山形市で日本最高気温の40.8度が記録されたから。気温30度を超えただけでくったりしてしまうのに、40度を超えたとは驚きですよね。

最近では海外のかき氷も日本で気軽に楽しめるようになりました。

 

 

 

 

 

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