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japan-eat’s blog

食に関する事や飲食店の運営に関する内容を記載してます。

夏の風物詩!ビアガーデン

古い言い伝えによると、ビアガーデン ができたのはカトリック教会と2人の聖 人のおかげだと言われています。

バイエルン地方の 1539 年の醸造令に 従えば、ビールは聖ミヒャエルの祝祭日(9 月 29 日)と聖ゲオルクの記念日(4 月 23 日)の間の期間しか醸造されることが 許されていませんでした。ビール醸造にとって火災の危険性が最も高まる季節のため、夏場の醸造は禁じられていたので す。そのため、ビールは夏場の貯蔵に耐えられなければなりませんでした。そこでビール 貯蔵庫が作られました。これは、たとえばイーザー川の斜面に作られました。よりよく冷 やせるよう、冬の間に調達した氷を使用したり、木陰をもたらしてくれるよう栗の木を植 えたりしました。

このことから、栗の木は今日でもビアガーデンにとっては伝統的で象徴 的な木です。ビールを新鮮で冷やして売るため、木の下にベンチを置き、市民が気軽に飲 みに来られるよう工夫がなされました。これでいい思いをしたのは宿泊施設です。醸造所のおかげで、ビアガーデンを訪れるお客をレストランに誘うことができたからです。一方で、 醸造所はみなバイエルン王ルートヴィヒI世を恨みました。というのもこの国王は、醸造 所はビールだけを販売することができ、食べ物を提供してはならないという法令を定めた からです。栗の木陰の下で1リットルジョッキでビールを楽しみたい人は、自分で食べる ものを持参しなければなりませんでした。この伝統は、古典的なビアガーデンには今でも 残っています。

 

もちろん、今日ではビアガーデンに行けば何か食べるものは手に入ります。それと同時に、自分で食べたいものを持ち込むこともできるのです。バイエルン王が定めた法令は、今日も生きています。

 

 

屋外で楽しむビール

 

現在、「ビアガーデン」を名乗る店舗は、商業施設の屋上やバルコニー、公園の中、都会につくられた庭園の中などさまざまな場所につくられている。一部には通年営業のビアガーデンもあるが、多くは夏季のみの営業であり、高層ビルの屋上ビアガーデンは都市の夏の風物詩となっている。近年は夏の季語としても認められ、俳句に「ビアガーデン」の文字を見るのも珍しくなくなった。

日本のビアガーデン
歴史は日本ビール産業の歴史と同様、横浜で始まった。1875(明治8)年には横浜・山手のスプリングバレー・ブルワリーの隣でスプリングバレー ビアガーデン

 が開かれていた。醸造所を経営していた、ウィリアム コープランドは1884(明治17)年に醸造所を手放した後もビアガーデンの経営は続けた。主な客は居留地の外国人で、ガラス製のジョッキやトタンのような素材でつくったポットと呼ばれる容器でビールを提供していた。

明治30年代はビアホールが流行し、主に都市部の人々にビールが飲まれるようになり、園遊会でビールを飲むことも流行した。もともと園遊会は、西洋のガーデン・パーティーを見習い、飲食を楽しむものであった。1906(明治39)年に刊行された『日本家庭百科事彙』には、園遊会は明治18、9年頃に行われ始めたとある。

 

明治30年代

 
園遊会は、会場にすし、茶菓子、ビール、そば、餅などの店をしつらえるようになった。1901(明治34)年11月、財界人の渋沢栄一が開催した還暦園遊会は、渋沢邸の庭にビール店、茶菓子店、茶室などがしつらえられた。明治30年代も後半になると日露戦争から帰還した兵士たちを招いた大規模な園遊会が行われるようになる。1906(明治39)年2月発行の『風俗画報』第335号に掲載された日比谷公園で開かれた東京市主催の陸軍凱旋歓迎会の様子を描いた絵には、軍服を着た多数の人々が立ったままジョッキのビールを飲む姿が描かれている。人々がビールを飲む姿は、同誌1907(明治40)年7月刊の第367号に掲載された東京勧業博覧会褒章授与式後の園遊会の図の中心を占めており、当時の人々にとってビール店が園遊会のシンボルだったことをうかがわせる。

園遊会以外でも

明治末期には花見の季節になると上野公園では臨時のビール店が設営された。その定番メニューは日本酒、ビール、サイダー、桜餅、ゆで卵だったとされる。 明治時代、園遊会や臨時のビール店は、野外でビールを飲ませる店であっても、「ビアガーデン」ではなく、「ビアホール」を名のることが多かった。「ビアガーデン」の語が一般的になるのは第二次世界大戦後である。

1934(昭和9)年

寺田寅彦はエッセイ、『映画雑感』において「吼えろヴォルガ」の回で、ドイツ映画『ハイデルベルヒの学生歌』で見た「露台のビア・ガルテン」で学生が合唱するシーンを回想している。彼のようにドイツ留学を経験した人やドイツ語を学ぶ人には野外のビール店は「ビア・ガルテン」であった。
 

屋上ビアガーデンの誕生

第二次世界大戦後、ビールが自由販売となり、都市部に高層ビルが建てられると、屋上ビアガーデンのブームが巻き起こった。屋上ビアガーデンの元祖は、1953(昭和28)年5月、本田技研が大阪で行ったオートバイの展示会とされる。本田技研は展示会の招待客に生ビールと食事をふるまおうと、前年竣工したばかりだった梅田の第一生命ビル地下のビアホール「ニユー・トーキヨー」にその会場になってほしいと打診した。しかし、「ニユー・トーキヨー」は、客の迷惑になるからと、同ビル屋上を会場にすることを提案。やってみると大人気となり、新聞にも取り上げられた。あまりにも人気が出たので、展示会後も年末まで屋上営業が延長されたほどである。そして翌1954(昭和29)年6月、「ビアガーデン」の名で正式に屋上店がオープンし、大阪の夏の蒸し暑さをしのぐ名所となった。

それより前にも屋上でビールを提供する店は東京・銀座に存在した。その事実を伝えるのが、1952(昭和27)年5月16日付『毎日新聞』朝刊の記事である。「初夏の序曲」という見出しがつけられた記事は、前日の最高気温が24度に達したことを伝えるもので、初夏の陽気を象徴するものとして、銀座の屋上ビアホールの写真を添えている。「夏のビヤホールもルーフガーデンと銘打って屋上に進出、一日の勤めを終えたサラリーマン氏があふれ、よしずに下った提灯がゆらゆら…」という記事のとおり、写真の中の「ビヤホール」は屋上に柱を立てて、よしずで屋根を張っている。壁はなく、眼下には東京の夜景が広がっていた。そのほかにも、同年には日本橋高島屋の「ビールの祭典 屋上庭園」、東京會舘の「屋上納涼園」といったように、ビルの屋上でビールを楽しむ店が現れた。
 
 

屋上ビアガーデンと女性

屋上ビアガーデンは、日本の各地にデパートや駅前ビルなど、高層の商業建築物が建てられるようになった時代とも重なり、数年のうちに全国の都市に広まった。また、ビアホールに女性の姿が見られるようになった時期でもあり、ビアガーデンにも女性客が増えていった。
1955(昭和30)年5月22日付『河北新報』朝刊は「屋根の上の夏」と題する記事で、仙台市の「Sビル名物の屋上食堂」で、「青空の下でビールとシャレた二人連れの姿もみられた」ことをビーチパラソルが並ぶ写真とともに報じた。


1955(昭和30)年7月3日付『読売新聞』東京版朝刊
「世界を駆ける涼風」の見出しで、羽田空港ターミナルの屋上テラスで見送りの男女がビールやジュースを飲んでいる様子を伝える。その写真の屋上テラスにはパラソルも提灯もないが、翌1956(昭和31)年7月11日付同紙朝刊に掲載された同じ場所の写真には提灯がめぐらされている。前年の人気を受けて、ビール会社が銘柄入りの提灯を提供したようだ。

その後も初夏になるとビアガーデンの盛況ぶりを伝える写真が新聞に掲載された。1960(昭和35)年5月31日付『読売新聞』東京版朝刊は東京・数寄屋橋のビアガーデンの写真を掲載。記事中に「おつとめ帰りのBG(注:ビジネスガールの略、女性の会社員や事務員のこと)の姿も目立つ」とあるが、その3年後になると女性目当ての「ファッションショーつきガーデン開き」が東京のホテルで開催されたほど女性客が増えてきた(『朝日新聞』東京版朝刊 1963年5月5日付)。

さらに
3年後の1966(昭和41)年7月8日付『朝日新聞』東京版朝刊は家庭欄で「若い女性はビールがお好き」と題して、若い女性がビアガーデンに増え、「暑い夜には若い女性づれも二、三割を占める」ようになったことを伝える。またビアガーデン側も「女性客がはいりやすいように」心がけるようになった。
 
 

根強いビアガーデン人気

 

いわゆる「屋上ビアガーデン」の最盛期は東京オリンピックの前後とされる。まだエアコンが普及していなかったこともあり、同僚と涼んでから帰宅しようという気持ちが勤め人たちをビアガーデンに向かわせたのであろう。この頃の屋上ビアガーデンでは生バンドがつきものだった。ビアガーデン内の特設ステージでハワイアン音楽を演奏したりすることがビアガーデンの目玉となっていた。

ビアガーデンの隆盛によって、屋上以外の公園や観光地などでもビアガーデンの通称でビールを飲ませる場所が増えた。特に有名なのは、札幌の大通り公園のビアガーデンである。1959(昭和34)年第6回「さっぽろ夏まつり」に始まったこの巨大ビアガーデンは、正式名称は「大通納涼ガーデン」といい、今でも北海道の夏の風物詩となっている。

ユニークな会場として
横浜・山下公園の氷川丸甲板がある。氷川丸は1930(昭和5)年に竣工・就航した豪華客船で、1960(昭和35)年に引退し、翌年から山下公園に係留され、すぐに甲板にビアガーデンが開かれた。港町横浜の夜景を一望できる場所で、潮風を受けながらクルーズ気分が味わえるビアガーデンとして人々に愛された。



1970年代後半になると
屋上ビアガーデンにも一時期の隆盛が見られなくなった。1976(昭和51)年8月16日付『朝日新聞』東京版夕刊には「ビアガーデン」という見出しで、ビアガーデンが「もう一つパッとしない」状況を伝えている。その理由には、「スモッグに包まれた都心にノッポビルが次々に生まれて売り物の景観もガタ落ち」したことや、「飲む場所が多様化」して女性客も「ビアガーデンを卒業」したことなどを挙げている。 1970年代後半はエアコンが普及した時代でもある。1970(昭和45)年、エアコンの普及率はわずか5.9%だったが、1980年代には50%を超えた。涼をとるためにビアガーデンに行く必要がなくなってきたのである。その後エアコン普及率は1992年に100%を超えたが、それによってビアガーデンの人気が急激に落ちることはなかった。



1980年代に入ると
ビアガーデンにもさまざまな業務形態が現れる。料理に工夫をこらしたビアガーデンや、スポーツ中継を放映するビアガーデン、屋上ではなく公園などの緑の中につくられたビアガーデンも出現した。こうしたいわば新しいタイプのビアガーデンには毎年飽きることなく人が集まるようになっていく。

キリンビールが2004年から行っている「ビアガーデンに関する意識調査」では、毎回90%以上の人々が「ビアガーデンに行く」と回答し、ビアガーデンの根強い人気がうかがえる。屋上ビアガーデンの最盛期を知らない若い世代の人気も根強い。

また、同じ調査ではビアガーデンに一緒に行く人として「友達」をあげる人が最も多く、「友達」「家族」「恋人」など、プライベートのグループで行くと答えた人は20代では90%近くにのぼっている。これは昭和30〜40年代のビアガーデンでは見られなかった傾向である。このように、昭和30〜40年代と現在のビアガーデンは時代ごとにかたちを変えてきているが、夏に外で楽しくビールを飲みたいという人々の気持ちは変わらず、今後もビアガーデンを「夏の定番」に位置付けていくことであろう。

 

 

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