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japan-eat’s blog

食に関する事や飲食店の運営に関する内容を記載してます。

北大路魯山人とは誰!何した人?

北大路魯山人のような人物は、残寝ながら世界中どこにも見当たりません。知られているだけでも、その顔は美食家、料理家、書道家、陶芸家、芸術家、文筆家、批評家……と実に!かなり!様々。仏の美食家、ブリア・サヴァランのように自己流のグルメ道を貫き、英国のデザイナー、ウィリアム・モリスのように「人々の生活を少しでも美しく」と言いつつ一般には手が届かない高級品を作り、さらにドイツの哲学者、ニーチェのように周囲の人々との衝突を繰り返した魯山人。しかし伝わっている横柄なエピソードに似合わず、作品は自由で大らか、素朴と呼べるものまであります。では、彼が愛した食の現場では、一体彼はどういう存在なのでしょうか。彼の器と料理の関係には、日本食をもっと楽しむためのヒントが散りばめられていました。

北大路魯山人

京都生まれ。本名は房次郎(ふさじろう)

昭和の偉人・魯山人は明治16(1883)年、京都の上賀茂(かみがも)神社の社家(しゃけ)、北大路家の次男として生まれました。社家とは世襲の神官の家柄で、いかにも裕福なお坊ちゃんのように思われますが、そうではありません。北大路家は、生活に窮する宮守りの家だったのです。魯山人というしかつめらしい名前は、のちに自分がつけた号で、本名は房次郎といいます。

その房次郎は、生まれたと同時に、比叡山の先の農家へ里子に出されました。それから転々と養家が変わり、養家で「おまえは、うちとはまったく何も関係ない」と折檻(せっかん)を受けることもあり、尋常小学校に上がると、待遇を少しでもよくするために、三度三度の食事係を買ってでました。そんななかから、魯山人は食材には多くの持ち味があること、そして旬の食材のもつ素晴しさを実感していったのです。食にこだわれば心豊かになる。それは苛烈(かれつ)な時代と引き換えに得た、唯一の福音でもありました。

『山鳥のように素直でありたい。太陽が上がって目覚め、日が沈んで眠る山鳥のように……。
この自然に対する素直さだけが美の発見者である』 ―魯山人


国民的食漫画のキャラクターのモデルにもなるほど、日本中で知られている魯山人こと北大路房次郎が誕生したのは1883年。京都は上賀茂神社の社家の息子、というと聞こえはいいですが、実際の生活は困窮し、両親の愛情を受けることなく養子にだされることになったそうです。
料理に関心を持ち始めたのも、最終的に引き取られた家で6歳から炊事をしていたからだといいます。その後芸術に造詣を深めながら成長し、自らを「魯(愚かな)山人」と名乗った彼は、1921年に『美食倶楽部』、1925年に『星岡茶寮』を発足。各界のグルメ自慢たちを相手に、自ら作った独創的な料理を盛り付けるための器制作にまで手を伸ばしました。

 

魯山人の書の才能が開花したのは、なんと10代!

魯山人が書と出合ったのは、10代半ばごろ。当時、ちまたでは、書の懸賞で一字書きが流行っていて、魯山人はこづかい稼ぎのために応募を繰り返していました。この懸賞には、毎回、何千何万という応募がありましたが、書才に恵まれた魯山人の作品は、きまって優秀作に選出。また西洋看板の仕事も手がけ、近所で先生と呼ばれるまでになります。

相当な勉強家であった魯山人。たくさんの自著では尊敬する人物を褒めたたえる一方、考えが合わない芸術家や自称・食通たちをばっさばっさと斬り放題。今も魯山人評は実に多岐にわたりますが、大好きか大嫌いか、の極端な性格で中間がない人だったのは確かなようです。

0歳の折に実母がいる東京へ。

母が四条男爵家で女中頭をしていたつながりで、男爵より有名な書家を紹介してもらうなどの縁にも恵まれたので、東京で書家を目ざすことになりました。翌年、上野で開催された日本美術協会展の書の部に隷書(れいしょ)の千文字を書いて出品すると、これが見事に褒状(ほうじょう)一等二席を受賞します。弱冠21歳での受賞は、前代未聞の快挙でした。さらに朝鮮に渡って、彼の地で1年余りを過ごしつつ、篆刻や芸術一般も学びました。30代に入ると、文人や数寄者(すきしゃ)、陶芸家、資産家、趣味人たちと知り合います。古美術に精通していた金沢の細野燕臺(ほそのえんだい)の世話で、須田菁華(すだせいか)窯ではじめて陶器の絵付けを試みたのもこのころです。

 

美食倶楽部から、会員制料亭の星岡茶寮へ

37歳のときに大きな転機が訪れました。友人の中村竹四郎と共同で古美術骨董を商う「大雅堂(たいがどう)美術店」(前年までは大雅堂芸術店と称した)を開くと、店で扱う器にみずから調理した手料理を盛り付け、ふるまうようになったのです。これが会員制の「美食倶楽部」の始まりでした。「金はいくらかかってもいい。美味いものを食わせてくれ」という政財界の大物が魯山人料理を礼賛し、会員は200名にも膨れ上がります。この出来事が、その後、会員制料亭開業の契機となっていったのです。

大正12(1923)年

関東大震災で大雅堂美術店を失った2年後に会員制料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を立ち上げます。会員には、貴族院議長の徳川家達(いえさと)や男爵の藤田平太郎、侯爵の細川護立(ほそかわもりたつ)、電力王の松永安左エ門(まつながさすざえもん)、作家の志賀直哉(しがなおや)や画家の鏑木清方(かぶらききよかた)ら、各界の名士が名を連ねました。

 

美食倶楽部時代

最初は、選りすぐりの古陶磁に料理を盛っていたものの、会員数が激増したため、そのころから新しい器の製作に取り組むようになります。星岡茶寮では、ときに100人前を超える食器一切をそろえる必要に迫られ、とうとう魯山人は本腰を入れて星岡窯(せいこうよう)という窯を創設。加賀の須田菁華窯や京都の宮永東山(みやながとうざん)窯といった有名な窯から職人を引き抜いて、理想の器の創作に没頭していきました。

 

魯山人の本気の取り組み

評判に評判を呼び、昭和恐慌(1930年ごろ)のさなかにありながら、星岡茶寮の会員は千人を超えるまでに。世間では「星岡の会員に非ざれば、日本の名士に非ず」とまでいわれました。しかし魯山人は、放漫経営の責任と、強引なやり方に不満をもっていた反対勢力のクーデターによって、昭和11(1936)年、ついに茶寮を追放されてしまったのです。

 

星岡寮で陶芸家として生きる

茶寮追放後は、星岡窯にこもって、陶芸家として眼を見張る活躍をしましたが、晩年は決して幸せとはいえない部分もあったようです。

 

美を厳しく追求する姿勢からもわかる

遠慮なく自分の信ずるところを口にし、ときに人を人として扱わない一面もあったといわれます。周囲から煙たがられたのは、ずばりと痛いところを突く眼識と、大きな風貌からにじみ出た威圧感によるところが少なくなかったのです。

ですが!魯山人の芸術は、その人間性さえも凌駕(りょうが)するような高みを見せ、没後から現在に至るまで、その絶対的な評価はまったく揺るぎません。

昭和34(1959)年、魯山人は横浜の病院で76年の生涯を閉じます。この数年前、文部省から二度にわたって重要無形文化財(人間国宝)認定の要請がありましたが、頑として首を縦に振りませんでした。「芸術家は位階勲等(いかいくんとう)とは無縁であるべきだ」という自分の信念を最期まで貫いたのです。

 

「人間国宝に選ばれるも、辞退 」

魯山人は1955年に重要無形文化財・人間国宝に選ばれることになりましたが、これを辞退しています。その理由を魯山人はこのように語っています。「作家は作品が永遠にものを言うのだから、勲章なんてアクセサリーはいらない。」!!!!!

しかも、認定の際には文部技官の小山冨士夫が2度も魯山人の元を訪れたのにも関わらず、断固拒否するのでした。生涯において芸術を極めていきながら、どの組織にも属することなく制作活動を続け、真の芸術家としての人生を全うしたかったのでしょう。

 

魯山人の食のこだわりとは?納豆、湯豆腐、すき焼きの作り方

納豆

タレを加えずに約300回混ぜ、タレを加えてから約120回混ぜたら、辛子や薬味を加えて食す。

湯豆腐

①切り込みを入れた昆布を鍋の中へ入れ、鍋の深さの半分の水を入れる
②豆腐を3cm角に切って鍋の中へ入れ、強火にかける。鍋の蓋はする。
③5分くらいで煮えてきたら、豆腐がほどよい弾力を帯びており、その刹那に、少し温めた醤油をつけて食べると美味い。

すき焼き

①鉄鍋に牛脂を塗る。
②脂の乗った牛肉を焼いてから酒、みりん、醤油を入れて焼けたら、まず大根おろしを乗せて食べてみる。
③鍋に鰹・昆布だしを加え、豆腐・しいたけ・春菊・ねぎを加えて煮込む。
④野菜を食べたら、先ほどの肉を再び入れて、焼いて食べる。
⑤適宜野菜を追加して食す。

魯山人の名言

「食器は料理の着物である」

「鳥のように素直でありたい。太陽が上がって目覚め、日が沈んで眠る山鳥のように。この自然に対する素直さだけが美の発見者である。」

「いいかね、料理は悟ることだよ。こしらえることではないんだ。」

「富士山には頂上があるが、味や美の道には頂上というようなものはまずあるまい。仮にあったとしても、それを極めた通人などというものがあり得るだろうか。」

「とにかく、かつての日本人の衣食住は、すべて立派であった。国外に遠慮するものあったら、それは間違いだ。」

 

武勇伝「本場のフランス料理にわさび醤油を合わせた」

本格的なフランス料理にわさび醤油を合わせた魯山人

魯山人が食へのこだわりに強かったことは様々な書籍で語られていることですが、それを裏付けるエピソードがフランスへ訪れた際に起こりました。本場のフランス料理店「トゥール・ダルジャン」で食事をした際に、料理の「ソースが合わない」として、魯山人自らが日本から持参したわさび醤油をソースの代わりとして使用したのです。

この「トゥール・ダルジャン」は鴨料理の名店で、ミシュランの3つ星を長期間保持していたことでも有名なお店です。しかも、魯山人の使用したわさび醤油は粉わさびを使用していたとも言われています。

 

最後に

いかがでしたか?なんか単なるわがままな爺さんみたいですが、すごい方なんですよね。
自分の想いを貫き、自分を貫いた凄いのか、変人なのか!笑
もし店に来たら、ま〜かなり嫌ですけどね、、、
今まで色々な政治家やフランスでも普段会えない方々、芸能人の接客を行いましたが、
絶対に接客したくない方、NO.1といえばこの方かな!笑

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