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japan-eat’s blog

食に関する事や飲食店の運営に関する内容を記載してます。

【和食の歴史】縄文時代から現代に至るまでの和食の歩み 2/2

食材を生かした、季節ごと(四季)の美しい彩りを見せる和食は今や世界に評価されています。しかし、和食も常に変化し続けています。

今回は和食の歴史を、どこに転換点があったのかに注意しながら見ていきましょう。って事で、前回は縄文時代から鎌倉時代まで紹介しました。続きを見ていきましょう!

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室町・戦国・安土桃山時代

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鎌倉幕府が倒された後、開かれた室町幕府は京都に置かれました。京都の公家文化と距離をおいた鎌倉幕府と違い、武家社会でありながら公家との交流は盛んになり、その中で武家による儀式を重んじた料理が発祥しました。

日本料理の基本になった、武家のおもてなし料理、本膳料理

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本膳料理は武家がお客を饗応する(もてなす)ための料理で、儀式としての要素が非常に大きい料理様式です。

本膳料理は膳を用いて、奇数の膳組を基本としていたことから、極めて日本的な要素が強い儀式料理でした。平安時代の章で紹介しました大饗料理が1つの大きな卓に皿を全部載せて、その皿の数が偶数であることから中国の影響が強いと説明しましたが、それと対照的でこの時代に日本式の儀式料理の完成を見たと言ってよいでしょうね。

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本膳料理は酒を中心とした献部と、食事を主とする膳部からなります。献部は特に儀礼的要素が強く(現在の三々九度に形式がわずかに残されています)その後、饗応の規模により一の膳のみなのか三の膳までか五の膳までか(膳は1度に出されます)違いはありますが、食事の合間に能が演じられるなどして全体が終わるのは夜を徹することもあったといわれています。

先に昆布、少し後に鰹節によるだしの使用始まる

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昆布だしが使われたことが分かる最古の文献は室町初期(1300年代後半と思われます)の「庭訓往来」という文献です。それ以前は、平安時代の大饗料理で説明したように、食べ物とは別に塩や酢という調味料を用意して味をつけていましたね。

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一方「かつほぶし」初めての文字が見られるのは「種子島家譜」(1512年)という文献です。かつおによるだしが用いられたのは1400年代だと考えられています。だしとして昆布より遅れた理由は、昆布はだしに適した品種を選ぶだけで良いのに対し、鰹節の製造は当時としては難しかったからです。

その後江戸時代には「昆布と鰹節のあわせだし」の記述があり、現代に近いだしの取り方が発明されたことがうかがえます。

 

茶道から発祥した懐石料理

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懐石料理は茶道の中から発祥してきた料理です。

戦いに明け暮れた戦国武将は精神の安定を求め、茶の湯を重んじました。
豊臣秀吉によって一応の安定がなされた安土桃山時代に、千利休が茶道を確立して、その中から懐石料理が生まれたのです。

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基本的には「本膳料理のような堅苦しい作法に縛られず、お茶を飲む前に料理を楽しみましょう」というスタンスです。茶会自体はもちろん千利休よりずっと以前からあったのですが、利休は茶会の最後の行われた酒宴をプログラムから外しました。にぎやかに騒ぐ酒の要素を茶道から外したのでした。懐石料理は利休が大切にした「一期一会」の精神が生かされています。「その場その場の出会いを大切にする」という精神が、特に旬のものにこだわる理由になっているのです。

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千利休の時代には「懐石」という言葉は使われていなかったと言われています。むしろ「会席」を一般的に使っていました。しかし、次の章で紹介する、江戸時代に高級料亭が出現しそこに集まった人たちが食べる料理を「会席料理」と言ったことから、後の時代に区別するために「懐石料理」と呼ぶようになりました。「懐石」とは禅の修行僧が懐に温めた石を入れて身体を温め、空腹を凌いだという故事からきています。

 

江戸時代

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信長、秀吉を引き継いだ徳川家康が、江戸幕府を開くことにより太平の世が訪れました。

現代の宴会料理の原型になる会席料理

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会席料理はそんな太平の世に料亭が出現してそこで出された料理のことです。元々は連歌や俳諧の後、俳人たちが他も染むための料理として出されました。

懐石料理は千利休が茶会から酒宴を外したと説明したように酒の要素がありませんが、この会席料理は酒を中心とした宴会料理という性格があります。そのため、初めにごはん、吸い物が出てくる懐石料理と反対で、酒を飲みながら、前菜から順番に出されて、最後にご飯と汁が出されます。

 

1日3食の習慣定着

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1日3食という現代と同じ習慣が定着したのは、江戸時代の元禄期(1688~1704年)頃です。それ以前は1日2食が普通でした。

この頃1日3食の習慣が定着した理由は以下の事が考えられます。

  • 戦国時代の武士が体力をつけるために1日3階食事をとった習慣が庶民にも浸透しました。

  • 1657年の「明暦の大火」という大火事で大被害を受けた江戸の町を復興するために集まった大工や左官やなどの肉体労働者が1日3回の食事をしました。

  • 流通が発達して、屋台や飯屋など外食産業が栄えました。

  • 照明用の菜種油が広く出回り、人が起きている時間が長くなりました。

以上のことから、現代と同じ習慣が定着したのです。

江戸の味そば、てんぷら、うなぎ、握りずし

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では江戸の市井ではどんな料理が好まれていたでしょう。江戸の味四天王といえば、そば、てんぷら、うなぎ、握りずしです。

 

そば

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そばは中世まではそば粥やそば餅などとしては食べられていました。しかし今のように麵としては食べられていませんでした。理由はつなぎに粘りがなく切れてしまうからでした。つなぎに小麦粉を混ぜて面を切れないように作ったのが江戸時代のことだと言われています。

現代は東京はそば、関西はうどんが好まれる、かなりはっきりした傾向があります。しかし江戸幕府が開かれたばかりは、元からの江戸の住民の人口は少なく関西からの移住が多かったためその傾向ははっきり出なかったようです。やがて江戸の人口が増え、もともとのそばの産地の信州や関東東北からの移住が増えるにつれ、江戸でのそば人気は高まりました。

 

てんぷら

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てんぷらの語源は戦国時代の終盤にポルトガル人によりもたらされたテンペロ(調理)が有力です。長崎、関西、江戸と西から伝わってきましたが、関西より江戸で人気が出たのは、屋台で揚げたてを提供するという形が江戸っ子の嗜好に合ったからのようです。

 

うなぎ

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江戸前うなぎが日本で1番美味しいと言われた理由は、日本一贅沢なものを食べている江戸っ子の残飯が流れてくる大川に住んでいるからでした。日本一贅沢なえさを食べているという訳ですね。産地にこだわる江戸っ子は江戸前うなぎにこだわりましたが、土用の丑の日はそれだけではさすがに足りず、他地方産のうなぎを食べました。それを風流に「江戸後うなぎ」と呼びました。

 

握りずし

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握りずしが登場する前には関西発祥の箱鮨がありました。酢飯を箱に詰め魚などのネタをのせ押してからそれを切って食べるものです。江戸っ子の気の短さはこの時間が待てませんでした。握りずしは江戸っ子の短気さが発明させた食べ方です。

 

明治・大正・昭和時代

江戸幕府が倒れ、明治時代は西洋文化が流入してきました。そして1871年(明治4年)に、「肉食禁止令」がおよそ1200年ぶりに解かれたのです。

西洋文化流入も和食化して受入れ

開国後の西洋文化の流入は食文化にも及びましたが、西洋文化をそのまま受け入れるのではなく和食化して受け入れたのです。
例えば、牛肉は「ステーキ」ではなく「牛鍋」(今でいうすき焼き)として浸透しました。またインド料理のカレーが、当時インドを植民地としていたイギリスを通して入ってきました。そしてフランス料理がもとになってコロッケを食べるようになりました。
牛鍋を西洋料理とか、日本の食卓に出るカレーライスをインド料理と思う人はいないでしょう。

ファミレスやコンビニの登場

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昭和の終盤ころには、インスタント食品の多用、ファミリーレストランやコンビニエンスストアの登場などで、今の食生活とほぼ同じ様式となりました。

太平洋戦争の敗戦により、困窮を極めた日本経済も、朝鮮戦争特需をきっかけに立ち直り、高度成長期を経て、昭和も終盤になると、現在とほとんど変わらない食生活になったのです。

 

平成時代

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ますます便利さが追求される平成の世の中で、自然を大切にする和食が世界で評価されました。

「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録される

2013年(平成25年)12月、「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。

農林水産省による和食の特徴は次の4つです。

  • 多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重

  • 健康的な食生活を支える栄養バランス

  • 自然の美しさや季節の移ろいの表現

  • 正月などの年中行事との密接な関わり

「無形文化遺産」とは、芸能や伝統工芸技術などの形のない文化であって、土地の歴史や生活風習などと密接に関わっているもののことです。

ユネスコの「無形文化遺産の保護に関する条約」では、この無形文化遺産を保護し、相互に尊重する機運を高めるため、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」というリストを作成しています。

まとめ

和食にはとても長い歴史があります。肉食を禁じられていた時代から、少しでも美味しくなるように、お客様に喜んでもらえるよう彩も美しくと、努力を重ねてきました。その結果、和食文化は世界に評価されるものになりました。ぜひ、私たちもこの和食文化を守っていきたいですね。

 

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