日本全国に色々な場所にそば屋がある中で、いちばん親しみやすいそば屋といえば「立ち食いそば」ではないでしょうか。街中のさまざまな場所や駅構内にも点在し、手軽にお腹を満たすのに重宝するものです。そんな立ち食いそばは、いつ頃から定着したのか!
- 立ち食いそばの始まりは江戸時代!
- 駅にある立ち食いそばの発祥はどこ?
- 日本で最も有名な「えきそば」といえば…
- 夜鳴き蕎麦
- コロッケ蕎麦
- 時そば
- 現代の立ち食い蕎麦
- それで生まれた涙ぐましい工夫が、丼の形状にあった。
- 米より長いおつきあい
- 本人の主食はお米になったのでしょうか?
- <年越しそば>
- 最後に
立ち食いそばの始まりは江戸時代!
そばは江戸時代に庶民の食べ物として浸透したといわれており、立ち食いスタイルの屋台として人気を博していたようです。
とくにそばが広まったきっかけが、1657年3月2日〜4日の間で江戸の大半を焼き尽くしたという「明暦(めいれき)の大火」。大火災によって江戸が崩壊しかけたのに伴い、復興のために多くの労働者が江戸に集まりました。その際労働者たちの外食の需要がぐっと高まり、すぐに食べられて手軽なそばが重宝されたようです。
最初はそば粉を湯でまとめた「そばがき」の屋台、その後麺状に仕立てた「そば切り」の屋台が生まれ、江戸後期には約3,000軒以上の立ち食いそば店が誕生していたようです。
ちなみにそばの屋台と同じく人気を博したのが天ぷらや寿司の屋台です。
そばとともに元祖ファストフードとして労働者に指示されていたようで、寿司はおにぎりのような大きなシャリに酢でしめたネタや玉子をのせたもの、天ぷらは串刺しになった具材をタレに付けて食べる串カツのようなものが主流でした。
駅にある立ち食いそばの発祥はどこ?
駅そば発祥の地として謳われているのが、長野県のJR「軽井沢駅」構内のお店。
1893年に軽井沢-横川間の鉄道が開通し、これに伴って車両の付け替えを軽井沢駅で行うにあたり、この時間待ちぼうけになる乗客を狙って、駅のホームでそばと弁当を売ったのが始まりだといわれています。
日本で最も有名な「えきそば」といえば…
駅構内で食べられるそばといえば素早さとリーズナブルさで勝負しているお店という印象。
どのお店もさほど変わりないイメージがあり、それが安心感を生み出しているともいえます。そんな駅そば業界において、変わり種として有名なそばがJR「姫路駅」構内にある「えきそば」です。このお店で食べられるそばは、実はそばではなく中華麺。とはいえだしは和風で、天ぷらやきつねなどそばらしいトッピングです。
昭和24年、物資不足であった終戦後に誕生した「えきそば」
小麦粉の代わりにこんにゃく粉とそば粉を混ぜて提供したことに始まり、その後次第に中華麺へと移行していきました。和風だしに中華麺というミスマッチ感が話題になり、地元の人のみならず全国的に知られるように。カップ麺として製品化もされるようになりました。
江戸時代から現代まで、「すぐに食べられておいしい」という観点で人々から支持され続けている立ち食いそば。元祖ファストフードとして歴史を紡ぎながら、今も発展を続けています。庶民に寄り添うリーズナブルな立ち食いそばの文化、ぜひ今後も続いてほしいものですね。
夜鳴き蕎麦
移動式の蕎麦屋は天文年間(江戸時代中期)にあらわれたようで、夜間に屋台を担ぎながら蕎麦を売っていたため「夜蕎麦売り」や「夜鷹蕎麦(よたかそば)」などと呼ばれた。この夜鷹というのは、当時の娼婦のことを意味しており、同じ時刻に客を集めていたことから、そう呼ばれるようになったともいわれる(諸説あり)。
また、担いだ屋台に取り付けた風鈴が鳴る音から「夜鳴き蕎麦」という言葉が生まれたともいわれている。夜鳴き蕎麦とは、夜に食べる小ぶりな蕎麦のことで、今で言う夜食のようなものだった。案外、娼婦たちもこぞって蕎麦を食べていたのかもしれない。
ちなみに屋台を担ぐと書いたが、当時の蕎麦売りのスタイルは、天秤棒のようなものに食材や食器を収めて歩いていたためで、客にしてみれば、まさに「立ち食い」しか食べ方がなかったようですね。
コロッケ蕎麦
時代が下り、新時代を迎えても蕎麦屋は変わらず繁盛し、今では屋台は消えたものの、駅の構内にある「駅蕎麦」やチェーン店の立ち食い蕎麦屋が当たり前になった。
「かけ」「きつね」「たぬき」「天ぷら」「月見」など、その種類も多い。だが、どうしても気になる蕎麦がある。それが「コロッケ蕎麦」だとか!
蕎麦にコロッケを入れるという、一見暴挙とも思える組み合わせが素晴らしい。
コロッケ蕎麦発祥の店が銀座にある「そば所 よし田」である。みゆき通りからさらに曲がった路地に面していて、すぐには分からないですが、明治18年創業という歴史のある蕎麦屋です。ですが、ここのコロッケはジャガイモと挽肉をこねたものではなく、鶏のしんじょ。しかし、表面は紛れもなくキツネ色のパン粉に覆われ、汁の旨味をたっぷりと吸い込む。当時は、今のようなコロッケが一般的ではなかったことから、このようにしたらしい。
ちなみにコロッケは大正時代に「とんかつ」「カレーライス」とともに「大正の三大洋食」として普及した。
時そば
江戸時代の立ち食い(屋台)蕎麦の資料はあまりないが、古典落語にある『時そば』から、当時の姿が垣間見れる。
この噺は、有名な「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、や」まで数えたところで、客が「今、何時(なんどき)だい?」と尋ね、蕎麦屋は「へい、九つでい」と答えて「十、十一・・・」と十六まで数え上げ、客は一文得をしたというものですが、この演目はめっぽう人気が高い。それは、噺家が軽妙に蕎麦をすする動作や音が、まるで本当に手の中に蕎麦があるように感じるためだとか。
現代の立ち食い蕎麦
今の飲食業において、いかに原価率を低く設定するかが繁盛のポイントとなるが、立ち食い蕎麦ほど薄利多売な業種もない!ですが、立ち食い蕎麦屋が潰れたという話はあまり聞かない。
ここ最近ではコロナ等の影響で潰れている店はある。
確かに、手軽に空腹を満たせるが、現代では様々なファストフードが溢れている。それなのに、です!
売り上げから光熱費や人件費、仕入れなどを差し引けば、一杯あたりの儲けは微々たるもの。そこで、一杯の原価は「銭単位」まで計算するという。
それで生まれた涙ぐましい工夫が、丼の形状にあった。
丼の下の方を引き絞ることで、汁の量を減らす。汁が減れば、蕎麦も減る。それでいて、蕎麦としては完成しているので、客に出しても恥ずかしくない。こういうことを知ってしまうと、余計に立ち食い蕎麦が愛おしくなってきた。
米より長いおつきあい
日本人の主食といえばお米ですが、そもそも日本で稲作が始まったのは今から約3000年前の縄文時代とされています。
ところがですよ!!!
そばはなんと約9000年前から食べられていたそうです。
高知県内の遺跡からは9300年前のそばの花粉が、埼玉県内の遺跡からは3000年前のそばの種子が見つかっているのです。圧倒的におつきあい歴はお米よりもそばのほうが長いのになぜ日
本人の主食はお米になったのでしょうか?
それはどうやらそばの硬い殻に原因があったようです。
お米のもみ殻は取りやすいのに対し、そば殻は何しろ硬くて大変だったのでしょう。
今のように便利な道具もなく、ひたすら力任せに石で叩き粉にしてからようやく食べていたようです。そのため長い間、そばは凶作に備えた備蓄食品として栽培されていました。
鎌倉時代に入って中国から石臼(いしうす)が伝ったことで、そば粉の大量生産が容易になり「そばがき」や「そば焼き餅」が広がっていきます。この頃のそばは細長い麺状ではなく、団子や餅のような形状で食べていたのですね。現在のような麺状のそばが登場したのは室町時代ではないかとされていますが、文献などには残っていません。
江戸時代に入ると、1643年(寛永20年)日本で最初のお料理本である「料理物語」にそば切り(麺状のそば)の作り方が載っています。当時のそばは今のようにお湯で茹でるのではなく蒸籠(せいろ)で蒸していました。
そば粉100%で茹でづらかったようですが、つなぎに小麦粉を使うようになってからはお湯で茹でる料理法が主流になりました。1751年(寛延4年)にはそばの製法からそば屋の様子まで、それこそそばのすべてを書いた「蕎麦全書」も刊行されています。
<年越しそば>
年越しそばを食べる習慣ができたのは江戸時代、そばのように細く長く生きるようにと長寿を願って食べる、1年の厄を切り捨てる意味で切れやすいそばを食べる、金箔職人が金をあつめるのにそば団子を使ったことから金運がつく、などの願いが込められているのです。
ところで皆さん、年越しそばはいつ食べますか?
大みそかの夜、歌合戦を聴きながら?
それとも除夜の鐘を聴きながら?
地方によっては新年が来てからおそばをいただく地方もありますが、やはり大みそかに食べるところが多いですよね。
ところが年越しそばは年をまたいで食べるとご利益がない!とご存知でしたか?
年を越す前に食べきらないと、前年の厄を持ち越すことになるそうなので、新しい年の幸運を願うのなら年内中に食べることが大切です。
最後に
まぁ、立ち食い蕎麦の起源が江戸時代の屋台だということは薄々感づいていたが、担ぐ蕎麦売りだったことは意外だった。さらに、現代の立ち食い蕎麦屋の努力には驚かされる。確かに丼を小さくすることで、省スペースになり、光熱費も抑えられる。個々の節約は小さくても、塵も積もれば山となる。今後も立ち食い蕎麦という文化は残っていってもらいたい。