130年を超える「駅弁」の歴史。食生活の変化を受け、存在価値はどのように変化するか。
どうして、同じ弁当でも、駅弁を車内で食べると格別に旨いと感じるのか。
固いごはんでも、冷めたおかずでも。ゴトゴト揺れてあわやこぼしそうになったとしても。
人は、やはり列車の中で、駅弁を食べてしまうのだ。
しかし、そんな駅弁も、ひたひたと迫る食の変化の波は避けて通れないらしい。これまで駅弁と共に歩んできたJR時刻表から、なんと駅弁を示す「弁」の表示が消えてしまった。
今、駅弁のあり方が変わろうとしている。
駅弁の歴史、その始まりは?
さて、駅弁とは読んで字のごとく、駅や車内で販売されている弁当のことです。
駅弁の歴史は諸説ありますが、現在の定説は、明治18(1885)年に宇都宮駅で白木屋が販売したのが始まりといわれています。上野と宇都宮間に日本鉄道が開通し、その旅客向けの販売だったそうです。
弁当の中身は、至ってシンプル。竹の皮に包まれた握り飯2個、たくあん2切れのみ。当時としては十分なほどの食事!現在の駅弁からは到底想像できない必要最低限の「ガチ車内飯」だったようですね。
それでも、当時はまだ列車の本数も少なく、営業は赤字覚悟。当時の価格で、5銭という高額での販売も頷ける(※天丼は4銭ほどの値段とのこと)。
さて、現在の駅弁に多く見られる幕の内弁当が出てくるのは、もう少し先。駅弁が始まった3年後の明治21(1888)年。もともと幕の内弁当は、歌舞伎見物の際に客がその幕間に食すことで名付けられたことに由来している。駅弁での最初の幕の内弁当は、山陽線の神戸、姫路間の延伸がきっかけに姫路駅でつくられたそうです。発案者すごい!
その後、着々と各地の鉄道が開通するに伴って、明治末期から大正初期にかけて多くの駅弁が誕生する。以降、各地で様々な工夫を凝らした駅弁へと進化していくのである。
いつでもどこでも誰とでも
駅弁の進化は、弁当の中身だけにとどまらず販売スタイルにも及んだ。
ひと昔前、古き良き昭和の時代では、肩から下げた駅弁売りや、移動式ワゴンでの販売の光景が、当たり前に駅のホームで見かけられた。団塊の世代にきけば、ホームで駅弁を買っていて、気付けば列車に乗り遅れたという苦い思い出がきっと披露されるに違いない。多分、10人に1人くらいの割合だろうか…。
しかし、今や駅弁は駅だけの弁当ではない。
「はあ?」という読者の声が聞こえそうですが!現実的な言い方をすれば、駅弁を「駅弁」として食する時代は終わったといえると思います。残念!
というのも、時代が進むにつれ、移動式の販売から店舗型の売店、そして全国の駅弁を扱う駅弁屋が駅構内に次々と誕生。それだけではない!駅弁の「駅」の意味を、場所ではなくブランドとして捉えるようになったのだよ!駅とは全然関係のない全国のデパートやスーパーにおいて、「駅弁大会」と称して、全国の駅弁が簡単に手に入ることが実現した(ちなみに「簡単」には語弊がある。人気の駅弁を手に入れるには、開店前から並んで整理券をゲットしなければ即売り切れる)。
進化はこれだけにとどまらない。さらに究極の食べ方、上には上が存在する。天敵現る?
それが、「お取り寄せ」である。
自宅にいながら駅弁を食べる。それも、好きな時に好きなだけ。旅に出なくても誰とでも駅弁を楽しめる。「明日の晩御飯…ちょっと贅沢したいなあ。新しくできたイタリアンのお店にする?あっ。でも、旅気分で、家で豪華な駅弁とかありかも?」エンゲル係数を抜きに考えれば、お手軽に旅気分を味わえる駅弁は、自分へのご褒美として「褒めご飯」なる新たな地位を確立する可能性を十分に秘めている。
JR時刻表から駅弁の文字が消えた理由
こうして、駅弁が「駅や車内で食べる弁当」から「お手軽に地方の特産物などを楽しめて旅気分に浸れるプチ贅沢弁当」へと変化した背景には、IoT時代特有の「便利さ」がある。
この変化を象徴するがごとく、JR時刻表の駅弁表示が削除された。
もともと、JR時刻表には、各駅名の横に「弁」という文字が表示されていた。「弁」とは駅弁の略語である。その駅で発売している駅弁があれば「弁」のマークが入り、銘柄と値段が一番下の欄外に併せて表記されていたのだ。しかし、2019年9月号を最後に、駅弁表示は時刻表から姿を消してしまう!なんてこったい!
駅弁をどのように食するか、この選択権が駅弁を提供する側から受ける側へと移ったといえる。もはや駅弁は、発売された「駅」という枠を超えた一つの「食文化」なのだ!!!!
駅弁の存在価値はどこに向かう?
それでは、駅弁の作り手側としては、食の変化の波をどのように感じているのだろうか。
駅弁屋として100年の歴史を持つ富山ますのすし本舗『源』。
『源』が駅弁として、ますのすしを販売し始めたのは、大正元(1912)年。当時はなかなか売れず、初日の販売数はサンドイッチやあんころもちなど全て合わせて26食。戦時中も鉄工所の炊事場を借りて駅弁を作っていたという。
そもそも、そこまでして駅弁を作る思いはどこからきているのだろうか。
駅弁は今や、1つの日本の食文化を形成し、さらに海外へと輸入されるところまで歩み続けている。ただ、個人の見解としては、駅弁ならではの趣きが置き去りにされているような気がしてならない。もちろん、食すことを考えれば、弁当の中身も大切。そこに全くもって異論はない。
しかし、中身がくっきり映し出された写真ではなく、地域の旅情が感じられる包み紙を開ける楽しみを味わいたい。わざわざ駅まで列車に乗ってたどり着く、その行程を味わいたい。そして何より、作り手の思いを一口ずつ噛みしめたい。
欲しいものが簡単に手に入る世の中だからこそ、駅弁を「駅弁」として食べたいと思う。