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japan-eat’s blog

食に関する事や飲食店の運営に関する内容を記載してます。

お好み焼き

お好み焼きの原型となったものは、煎餅(センビン)といい、小麦粉を水で溶いて平らに焼いただけのシンプルなものです。また中国では小麦粉で作ったこの種のものを餅(ビン)と呼んでいます。

煎餅は古く、夏(か)の頃(新石器時代)から似たものがすでに作られていたようで、その時代の遺跡から陶ごうという煎餅を焼く調理器具が出土しています。孔子の思想を前進させた墨子の言葉にも煎餅が登場し、その当時から庶民が主食としていたようです。

お好み焼きの原型ともいうべき煎餅ですが、中国の煎餅はあくまで小麦粉を水で溶いてクレープ状に焼いたもので、その中に別に調理した副菜を包んで食べる、いわば具の容器を兼用するものが大半でした。

最初の伝道師 吉備真備

唐で新しい知識を身につけて帰朝した新進気鋭の学者である吉備真備(きびのまきび)は、大学寮での課外授業として教室に小麦と小麦粉を持ち込み、学生たちに長安における粉食文化のすばらしさを説いていました。

そして講義の締めくくりに、長安で習い覚えた煎餅(センビン)を自ら焼いて学生に試食をすすめたと言われています。

粉食文化の普及に寄せる真備の情熱もむなしく、日本の粉食は団子と麺類にのみ嗜好が傾斜してゆき、煎餅類は久しく陽の目を見ることはなかったのです。
歳月を経て、わずかに煎餅の流れをくむ「ふの焼き」が、千利休らの手によって茶界に登場する日を待つしかないのでした。

生みの親は千利休?

室町時代、茶人・千利休は、「ふの焼き」を茶菓子として用いるようになりました。
このふの焼きは、うどん粉を水と酒でねった生地を薄くのばして焼き、味噌をぬって丸めたもので、日本的お好み焼きの原型といわれています。
 

戦後のお好み焼きのはじまり

戦前、駄菓子屋の店先で買い食いする「もんじゃ焼き」が人気になりました。それに対し、テイクアウトできる「どんどん焼き」が登場します。洋食のブームに伴い、このどんどん焼きに洋食文化であるウスターソースをぬったものが「一銭洋食」で、昭和初期にソースの香りと今までにない味が子供たちに大人気となりました。そして戦後の飢餓の時代。
空腹をいやす食べ物を求めていた頃、にわかにクローズアップされた食べ物がありました。その食べ物こそ、子供達の間で人気のあった駄菓子屋の「一銭洋食」だったのです。
戦前の大人たちは、この一銭洋食の存在を子供騙しのおやつぐらいにしか考えず見向きもしなかったのですが、背に腹はかえられないと、子供たちの一銭洋食を国民的な食べ物に格上げしたのです。戦後のお好み焼きの歴史はこうして始まりました。

お好み焼き店のパイオニア

盛り場にいち早く店を開いたパイオニアたちは、子供たちに人気のあった一銭洋食の上に、申し訳程度の豚肉をのせ、呼び名を「一銭洋食」から「お好み焼き」へと変更し、大人の食べ物として通用するものにしました。
このようにして新しい世界に踏み出したお好み焼きでしたが、まだ昭和20年初期の頃は、空腹をおさえる手頃な食べ物といった軽い評価しか得られず、街の片隅でほそぼそと焼かれる存在にすぎませんでした。

お好み焼きの地位確立

昭和30年代に入ると、地域や店舗ごとに様々な具材が使われるようになりました。お好み焼きは食欲を満たす食べ物のイメージから一転して、大人の味覚に充分応えうるものとして、あらゆる層から圧倒的な支持を得るに至ったのです。

なぜ戦前に流行らなかったのか!

なぜ戦前にお好み焼きが流行らなかったのでしょうか。お好み焼きは、当時の人々に容易に受け入れてもらえないいくつかの要因があったようです。その主なものは、ご飯に対する日本人の思い入れの度合ではないでしょうか。
戦前の食事はあくまでご飯(お米)が中心であって、とにかくご飯を食べなければ食事をした気分になれないのが日本人の気質であったと思われます。おかずでもなく主食でもないお好み焼きは、どっちつかずの食べ物だったのです。
 
広島とお好み焼き

戦争中の食生活

戦争中は食べ物が簡単に手に入らず、配給制で一人ひとりが決められた量をお金を払って買っていました。その量はやっと1日を生き延びられるほどわずかなもので、芋を主食に野菜や野草とお米を少し混ぜた汁のようなおかゆなどで空腹をしのぐ毎日でした。

お好み焼きは空腹をしのぐ食べ物

戦後、アメリカから支援物資として配給された少量の小麦粉を多めの水で溶き、ねぎやキャベツ、もやしなどを焼いて食べていました。

その後、広島市内にお好み焼きを売る屋台や店が増え始めます。当時の広島は鉄を扱う工場が多く、比較的鉄板を手に入れやすい環境でした。それでも、お好み焼きは空腹をしのぐ食べ物として、街の片隅でほそぼそと焼かれる存在にすぎませんでした。

住宅の一部を改装した店舗が増加

昭和30年代になると、住宅の一部を改装してお好み焼きを提供する新しいスタイルが増えました。店主はおばちゃんが多く、広島のお好み焼きの普及を支えました。この頃から麺や豚肉を加えるようになり、広島のお好み焼きの原型ができました。

屋台から店舗へ

昭和40年以降、治安維持のため屋台が立ち退きの対象となり、お好み焼き店が集合する建物ができました。
 

お好み焼きをどう切り分けるべきか? 

「丸いものを平等に公平にシェアするには、ピザ切りが一番」と主張する人たちがいる。一方、「格子切り」にして四角にした方が食べやすい、という人も多い。また「そもそもお好み焼きは1人1枚が原則。カットする必要ない」と、シェアそのものを否定する人の存在も無視できない。

関東ではお好み焼きは分けて食べるから

関東でピザ切り派が多いのは、お好み焼きを複数人で分ける食べ方が定着しているからです。東京のお好み焼きのルーツはもんじゃ焼きだと言われていますが、もんじゃ焼きは駄菓子屋などに置かれた鉄板を複数人で囲んで食べるスタイルでした。そのため関東では、お好み焼きは複数人で分けるもの、という考え方が根付いたのではないかと考えられます。

ピザ切りは放射状に切るため、格子切りに比べて大きさが不揃いになりにくいという特徴があります。これらの特徴がお好み焼きを平等に分けるのに適していたので、ピザ切りは関東中心に広がりました。

ちなみにピザ切りをする時はまずお好み焼きを十字に切り、それをさらに放射状に切り分けていくと大きさが揃い、綺麗に切り分けることができます。 

関西ではお好み焼きは一人で食べるから

大阪・広島を中心とする関西で格子切り派が多いのは、関西ではお好み焼きは1人で1枚食べるのが主流だからです。関西のお好み焼きの前身は、戦後の大阪や広島で流行した一銭洋食と呼ばれる食べ物だと言われています。

一銭洋食とは、水で溶いた小麦粉を焼いたものの上にかつお節やウスターソースをかけ、半月状に折った食べ物のことです。一銭洋食はもんじゃ焼きのように複数人で鉄板を囲んで食べるスタイルではなく、1人ひとりが手で持って食べるものでした。そのため関西では、お好み焼きは1人で1枚食べるものとする考え方が定着したと考えられます。

格子切りは箸で掴みやすく、一口サイズなのでコテでも食べやすいという特徴があるため、お好み焼きは1人で1枚食べることが一般的な関西で広まりました。格子切りもピザ切りと同じようにまずは十字に切り、それから縦横に切れ目を入れていくと綺麗に切ることができます。

全国的には格子切り派が多い

地域分布図を見てみるとピザ切り派が優勢なのは28、格子切り派が優勢なのは19都道府県なので一見するとピザ切り派が多いように見えます。しかし、2020年の人口ランキングでトップ5の東京、神奈川、大阪、愛知、埼玉は全て格子切り派が優勢で、ピザ切り派は人口が少ない県に集中しています。つまり、人口で見るとピザ切りよりも格子切りの方が多数派です。


このことから、実際には格子切りでお好み焼きを食べる人の方が多く、店舗でも格子切りで提供する店舗の方が多いことがわかります。ピザ切りは多くの地域で見られる切り方ですが、全国的には格子切りが優勢でしょう。

お好み焼きの切り方の違いは食べ方の違いだった

お好み焼きの切り方の違いは、複数人で分けるか1人で食べるかの違いにありました。複数人で分けて食べる関東では平等に分けやすいピザ切り、1人で食べる関西では箸で掴みやすい格子切りが主流ですが、地域にこだわらずシーンによって使い分けるのもおすすめです。それぞれの切り方のメリットを生かして、楽しくお好み焼きを食べましょう。

 

 

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