「鏡」は円満を、「開く」は末広がりを意味します。昔、武家では正月に鏡餅を供え、正月11日にこれらを割って食べるという習慣があり、これを「鏡開き」と呼んでいました。現在でも家庭や事務所で年の始めに鏡餅を供え、一年の健康と発展を祝って供えた鏡餅を食べる「鏡開き」が正月の行事として受け継がれています。
「鏡開き」に使われる酒樽は、主に「四斗樽(よんとだる)」です。
四斗は約72リットルで、一升瓶40本分に相当する量の日本酒が入っています。
お祝いの席で行われる「鏡開き」では、とくに酒樽を“菰(こも)”でくるんだ「菰樽(こもだる)」と呼ばれるものが使用されます。
菰樽の歴史は
はるか江戸時代にまでさかのぼります。当時、灘から江戸に向けて、樽に入れた“下り酒”を樽廻船に乗せて輸送していました。
航海時に船が揺れ、樽と樽がぶつかって中の酒がこぼれてしまうのを防ぐために、手近にあった藁を編んだ“菰”を巻いて樽を保護したのが、菰樽のはじまりです。
やがて縄がけなどにも技を凝らして見栄えを良くし、髭文字などを使った銘柄の意匠にも化粧を施し、ハレの出立ちの菰樽が誕生していきました。
酒樽の歴史となると、さらに時代をさかのぼります。
鎌倉・室町時代にかけて、短冊型の板を立てて並べ、竹の箍(たが)で締め付け、底を入れる桶や樽などの「結桶(ゆいおけ)」がつくり出されました。
この結桶が、現在の酒樽です。
結桶の登場は、当時の生活に大きな変革をもたらすことになりした。
手桶、水桶、洗い桶、タライなどの生活用具や井戸側や釣瓶、風呂桶などの生活用水回り、食糧保存の味噌桶や漬物桶など、幅広い容器として使われるようになった、今でいうベストセラー商品です。
また、都市の近郊農家に下肥(しもごえ〈人の糞尿〉)を運ぶための杉の軽い肥桶が普及し、都市の糞尿処理と農家の施肥が循環する社会環境が整えられていきました。
当時、下肥は大切な資源のひとつで、都市を清潔に保つと同時に新鮮な野菜の生育に欠かせない肥料が、丈夫な肥桶がつくられたことで、歴史的に大きな発展を遂げたことになります。
そして、さまざま需要に後押しされるかのように数多くの結桶が流通し、それに伴って製造技術水準もどんどん高く磨かれていきます。
その結果、酒や醤油、味噌などの仕込桶として活躍する大型の結桶がつくられるようになりました。
とりわけ、酒造業にとって、それまでの「甕(かめ)」や「壷(つぼ)」で醸造する小さな規模から、大量生産が行われるようになった大きな革命的進歩を遂げたキッカケといえます。
大きな結桶で酒を造っていた様子は、1582年(天正10年)の「多聞院日記」の“正月三日に、
若い尼が誤って十石入りの仕込桶に落ちて死んでしまった”という記述に垣間見ることができます。
酒樽は、完成された伝統技能の集大成
結桶が登場するまで、酒の醸造は甕や壷で行われていました。
一般庶民の生活では、「曲物桶(まげものおけ)」が容器として広く普及。
曲物桶は、杉や檜などを薄く削ってできた板を円形に曲げて合わせ目を樺、桜の木皮で綴じる技術で、平安時代に確立されたものです。
室町時代には
この慣れ親しんだ曲物桶も継続して使われていましたが、江戸時代になる頃には、生活容器の主流は、結桶が完全に取って代わることになります。
江戸時代は
庶民文化が栄え、数多くの職人が生まれました。「結桶師(桶屋)」も職人として、そこに名を連ねています。
当時、結桶は使い捨てではなく、結桶師が都市や近郊の農村部を回って、弛んだ箍(たが)を締め直して繰り返し使用されるものでした。
その様子は、国宝「上杉本洛中洛外図屏風/上杉博物館所蔵」や国指定重要文化財の「紙本着色職人尽絵/喜多院所蔵」に描かれています。
この結桶製造にあたって、灘地域の酒造業に大きく貢献したのは、奈良の吉野地方の杉です。1660年頃から造林が行われていた吉野地方の杉は、樽丸(樽の側板材)に適したため重宝されたとのこと。
年輪幅が均一でフシが少なく、光沢のある淡紅色。
また年輪幅が狭いため、幾重にも重なった年輪の層が、中の液体の浸出を完全に防ぐとともに、アクが少ない木質なので、嫌な色や香りがつきにくい特徴を持っています。
逆に、酒の香りのひとつにもなる杉の木香が適度な移り香となり、より高い芳醇な香りを醸し出します。
灘の深い味わいの酒と、それを運んだ吉野杉の酒樽が、互いに調和して類い稀な「下り酒」として、江戸の町で人気を博したことにもうなずけます。