映画館やテーマパークで定番のおやつ、「ポップコーン」。とうもろこしを使って作られますが、爆裂種という種類のとうもろこしからしか作れないんですよ。
- ポップコーンの起源
- とうもろこしの原産地は
- ポップコーンの原料は爆裂種
- ポルトガル船より伝わるポップコーン
- 映画館への持ち込みNG?
- より多くの人が映画を見るように!
- 隠し持つポップコーン!
- 映画館の救世主ポップコーン
- ポップコーンの時代到来
- ポップコーン小話
ポップコーンの起源
ポップコーンはネイティブアメリカンやメキシコの先住民が栽培していたブタモロコシと呼ばれる雑草が起源とされています。
それが北アメリカに持ち込まれ、急速にアメリカに普及し、手軽なお菓子としてサーカスや縁日などの場によく見られるようになっていきました。しかし、その中でも映画館はポップコーンの持ち込みを禁止していたのです!
とうもろこしの原産地は
メキシコやグアテマラ等の中南米付近だと言われているそうです。
その理由は1961年に、メキシコ南部で八千年前に栽培されたトウモロコシの痕跡が見つかりました。その後、メキシコから南北アメリカ大陸へトウモロコシは渡り、主要農産物となります。
その後、とうもろこしが世界に広まったのは、15世紀末、アメリカ大陸を発見したあのコロンブスがスペインへ持ち帰ったことがきっかけだと言われています。ヨーロッパ諸島、北アフリカ、中近東、1500年代後半にはイギリス、東ヨーロッパまで広がり、16世紀初めにポルトガルからアジアへ伝わったそうです。
日本に伝来したのは
440年以上も昔の、安土桃山時代(天正年間1579)にまでさかのぼります。ポルトガルから長崎、または四国に『フリントコーン(硬粒種)』が伝わります。
フリントコーン(ポップコーンの元)は、加工して食用に、あるいは家畜用飼料や工業用の原料に使用される品種で、角状デンプンと呼ばれる硬いデンプンが粒の全体についているのが特徴です。メキシコ料理のタコス、トルティーヤにこの品種が使われます。『爆裂種』も、もともとはこのフリントコーンから生まれたものです。
ポップコーンの原料は爆裂種
1579年に長崎、または四国に爆裂種のルーツ、フリントコーンが伝来されたといわれています。そして、四国の海の玄関は高知・・・
もしかして、日本で最初にポップコーンを食べたのは高知?! と勝手な高知県民の私は妄想が膨らみます。
当時、南蛮船が運んで来たことから「ナンバンキビ(玉蜀黍、南蛮黍)」と呼ばれ、九州や四国の山間部で栽培が定着してからは、中国、近畿、東海地方と北上し、関東周辺の山地へ伝わったとされています。江戸時代に入ってからは、特に水田や畑地が少ない地域で、重要な食糧となっていきます。
本格的に栽培されるようになったのは
明治時代に入ってからで、北海道開拓に伴い、北海道農事試験場がスイートコーン(甘味種)である『ゴールデンバンタム』という品種をアメリカから導入したことが始まりです。 第二次大戦後には、北海道から南下して本州に広まり、日本全土でのとうもろこし栽培が始まりました。
ポルトガル船より伝わるポップコーン
日本にトウモロコシが上陸したのが1579年。先述したように、ポルトガル船によって、長崎、もしくは四国に爆裂種の元になった品種『フリントコーン』が持ち込まれました。そして、四国では早い時期からトウモロコシを加熱し爆ぜたものを食べていました。
大正~昭和初期の食生活の記録
都道府県ごとに残した農文協の『聞き書』シリーズを参考にすると、当時から四国では『焼いてはじかせた、真っ白い花のように開いたきれいで香ばしい』トウモロコシをおやつ等にしていたという記述があります。
徳島では『はぜとうきび』、愛媛、高知では『花きび』。
海を渡って四国の対岸にあたる和歌山では『花』と呼ばれて親しまれていたそうです。
当時の文献を辿ると『他の地域でも江戸期から明治にかけて四国で育まれた和製ポップコーンが和歌山へと伝わったと考えるのが自然な道筋だ』と記載されていました。
映画館への持ち込みNG?
1885年にCharles Cretorさんがポップコーンをつくる移動可能な機械を発明しました。サーカスなどに行く人々をターゲットにして、道ばたで販売を行うことができるようになったのです。このことによってポップコーンはエンターテインメントの場に持ち込みやすくなりました。しかし、その当時映画には音がなく、人々は目だけで楽しんでいました。
そのため、ポップコーンを食べる音などで集中がそがれる事を避けたかったのです。また、映画はすべて字幕だったので、映画館は字が読める教養のある人にアピールしていて、館内の床にはきれいなカーペットが敷かれていました。
そのため、ゴミになるものの持ち込みを禁じていたのです。
より多くの人が映画を見るように!
映画に音声が加わって、字が読めない人も楽しむことができるようになって門が大きく開かれました。映画を見る人が増えると、それにともなってお菓子の販売で収益を得られる可能性が上がってきました。
隠し持つポップコーン!
1929年、世界恐慌が起こります。現実に嫌気がさした人々は娯楽を求めて映画館に行くようになりました。商人たちは映画館に続く道でポップコーンを販売し始めました。
安く手に入るポップコーンは人々にとってちょっとした贅沢品だったのです。映画館に行く人だけでなく、通行人にもポップコーンは親しまれました。
しかし、この頃、まだ映画館はポップコーンの持ち込みを認めていませんでした。理由の1つとしては館内に喚起場所がなく、匂いの問題があったことが挙げられています。
それでも人々はポップコーンをコートの裏などに隠して持ち込んでいました!ちなみに現在ポップコーンの定番である塩味はこの頃から親しまれていたみたいです。
映画館の救世主ポップコーン
世界恐慌による不況の中でも、映画館はお菓子の力もあり、利益を得ることができていました。しかし、だんだんと経営は傾き始めます。
そこで大手の映画館では各店舗にポップコーンのマシンを置くことにしました。しかし、そのうちいくつかの店舗は客層に合わないとしてマシンを置きませんでした。
すると、マシンを入れなかった店舗は少しの間に赤字になってしまったのです!
このことによって、映画館は生き残って行くためにポップコーンが重要なアイテムだと認め、持ち込みを許したのです。
ポップコーンの時代到来
第二次世界大戦が勃発!これがポップコーンの発展に大きな影響を与えることになります。戦争で砂糖がなかなか手に入らなくなって、キャンディーやキャラメル、ジュースなどは販売が困難になりました。
そこでポップコーンの時代がやってきます。
塩味やバターが主流だったポップコーンはたくさんの人に食べられるようになっていきました。
また、この頃から映画を上映する前にコマーシャルが入るようになりました。ポップコーンのCMが流されるようになると、ますますポップコーンを買う人が多くなりました。
こうして、ポップコーンは映画館の定番のお菓子になったのです。
ポップコーン小話
映画鑑賞に欠かせないスナック、子供たちの楽しいパーティでのいつものお菓子、友達とのほっこりとした夜のお供。そう、それが私たちが皆知っている「ポップコーン」なのです。
いつか、料理の新しい道を切り開こうとする一人の料理人がいました。
彼はある日、手元に残った様々な野菜や果物と一緒に、ひとつのトウモロコシを鍋へと投入しました。そこで火にかけて待ち続けると、突然鍋の中で活気が湧き上がり、'ポン!'という音と共に、もともとの大きさの何倍ものサイズに膨らんだコーンが飛び出してきました。そしてその途端、彼が作り出したのが、「ポップコーン」でした。
その美味しさと新たな形状に驚いた料理人は、さらに試行錯誤を重ねました。そして甘いキャラメル、辛さがクセになるチリ、濃厚なチーズ、爽やかなハーブなど、さまざまなバリエーションが生まれました。そして現在では、パーティーや映画鑑賞の定番スナックとして、私たち全ての笑顔を引き出す存在になりました。
さて、興味深い話に向けて最後に提起したいのは、こういうことです。
「ポップコーンは予測不可能な創造性と革新の象徴であり、最もシンプルなものでさえも広範囲に驚きと喜びを提供することができる」のです。その証拠かもしれませんね。