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japan-eat’s blog

食に関する事や飲食店の運営に関する内容を記載してます。

ビールを飲む器とビールの容器

皆さんはどんな容器でビールを飲みますか?

ってことで今回は少し調べてみました。

 

江戸時代に紹介された「ビールを呑む器」

江戸時代後期、フランス人ショメールが編集した『家政百科』のオランダ語版を、大槻玄沢(げんたく)、馬場貞由、宇田川玄真、小関三英、宇田川榕菴(ようあん)など当時一流の蘭学者たちが翻訳した『厚生新編』には、ビールについて書かれた項目がある。『厚生新編』では原本を部門別に再編集し、日本人向けの解説を加えており、ビールの項目には飲み方の説明がありました。



「これを呑むの器を『ビールガラス』と呼び、

『ガラス』は硝子にして、即ち『ビール』を盛る為に設るものなり。
渡来の品を邦俗ちよくこつぷと称するは即これなり。
多くは大器にして、水量一合より入るものなり。
其以下の物は銘酒の飲器にして其名を異にするなり。

しかれば微飲するものにあらざる事知るべし。其酒を盛るには罎(ふらすこ)を高く挙て此盃器(こっぷ)に注ぎ下し、一頓に冷飲するなり。」


また、江戸時代中期の1788(天明8)年に書かれた大槻玄沢著『蘭説弁惑』には、ビールを飲む器が描かれている。
ビールを飲む器には、ガラス製のコップが用いられていた。現代ではコップは脚のない、円筒に近い形のものをいうが、江戸時代は脚付きのラッパ状に口が開いた杯も「コップ」の名で呼んだそうです。
開港後、洋酒の輸入が始まると、日本人もしだいにワインやビールをコップで飲むようになった。『ジャンパン パンチ』1866年(慶応2年)1月号には、腰までの長さの羽織に西洋着風のズボンと西洋靴を履き、脚付きのグラスでビールを飲んでいる日本人が描かれている。

当時は宴会の席で、返杯の際に酒盃を洗う「杯洗」の習慣があった。大正時代のポスターにはビールのコップの杯洗の様子が描かれている。また、「衛生杯洗機」なる自動の杯洗機も販売されていた。
 

ジョッキで飲むビール

明治後期に流行したビアホールでは、持ち手のあるジョッキでビールが提供された。あるビアホールでは1L、500mlがジョッキで、250mlは底の平たいコップで提供した。また、ビアホールでは、ガラスやホーローの注ぎ口が付いたジョッキをピッチャーとして使用することもあった。

明治30年代から40年代にかけて盛んに行われた園遊会では、現在の大ジョッキ程度の大きさのジョッキも使用されていた。1907(明治40)年発行『風俗画報』第367号の東京勧業博覧会褒章授与式後の園遊会の図では、中心に紳士2人が向かい合って違う形の大ジョッキを手にしている。
 
 

ビールびんの製造開始

開国後、日本には樽ビールとびんビールが輸入されていた。やがて、ビールは国内で醸造されるようになったが、当時、日本にはビールびんを製造する会社がなかった。そのためビール醸造所は輸入ビールの空きびん、陶器のびん、日本酒用の徳利などに自社製品を詰めて出荷した。輸入ビールの空きびんは常に不足しており、横浜・山手のスプリングバレー・ブルワリーでは、上海などから空きびんを取り寄せることもあった。特に地方の醸造所は、びんを集めるのに苦労したそうです。

ビールの国内生産量が増加した1890(明治23)年頃は、びんの価格が高騰した。
前年末には2銭だった空きびんが4銭に値上がりしたという。
1889(明治22)年に、品川硝子会社で手吹きのビールびんの製造が始まり、同社のびんはキリン、恵比寿、浅田などのビールで使われた。
1893(明治26)年になると、田中硝子によってビールびんの本格的量産化が可能になった。以後も技術が進み、1906(明治39)年にはデッセル式による機械製びんが始まり、1916(大正5)年には全自動製びん機によるびんの大量生産が実現した。

ビールびんの大量生産の一方で、ユニークなびんも現れた。麒麟麦酒が1906(明治39)年に発売した「ピルスナービール」のびんは、背が高くてびん首が長い形をしていた。また、昭和初期には各社から約2L入りの特大びんが次々に発売された。
 

ビールびんの容量統一

ビールびんの形や容量も時代とともに変わってきた。スプリングバレー・ブルワリーのクォートびんは約757ml、パイントびんは約378ml前後であった。ジャパン・ブルワリーが1889(明治22)年に品川硝子会社に発注したビールびんの入味容量は3合8勺(約685ml)ほどで、麦酒税法が施行された1901(明治34)年10月には、ビールの大びんの入味量は3合6勺(約649ml)に決められた。1927(昭和2)年4月1日からは、麒麟麦酒の各工場で大びん3合5勺6才(約642ml)に統一された。

1944(昭和19)年4月に酒税が庫出税に一本化されたことを受けて、1944(昭和19)年8月にビール瓶の入味量が統一された。当時、ビールは製造工場・会社などによって容量がまちまちだったため、その中で一番少ない容量のびんの3合5勺1才(約633ml)に合わせることとした。その理由は、それより大きいびんも取り替えずに使用できるからである。同様にして小びんの入味量も約334mlと定められた。なお、大びん、小びんは明治時代から販売されていたが、500mlの中びんは1957(昭和32)年に登場した。その後もさまざまなサイズのびんが発売されている。

当時のポスターや新聞広告を見る限り、ビールびんの色は、明治時代から濃い茶褐色だったようだ。特別記念醸造ビールや一部のビールでは、白びん(無色透明びん)も使われた。
 
 

生ビール用貯蔵樽は木製からステンレス製へ

 
日本でビールが醸造され始めた頃、木製の生ビール樽はすべて輸入されていたが、やがて日本でも木製樽がつくられるようになった。麒麟麦酒では、1937(昭和12)年頃に一部が機械化されるまでは、樽材を用いて胴板をつくり、これを組み合わせて鉄枠で締めて樽型にする工程はすべて職人の手作業であった。ちなみに、麒麟麦酒の樽材は福島・南会津の標高500〜600mの南向き斜面のナラを使用していた。雪深い地でゆっくり成長したナラは年輪が密で、ガス漏れが少なく、保冷度が高いという性質を持っていた。

熟練工の手仕事による製作と、定期的な修理を必要とする木樽は、その後、同一形状、同一容量のものを大量に生産でき、定期修理の必要もなく、軽量(木樽の約3分の2)であるという長所を備えたステンレス製の樽に代わっていった。麒麟麦酒では、1962(昭和37)年に木樽からステンレス樽に切り替えを始めている。
 

コルク栓から王冠栓へ

明治初期の国産ビールのびんにはコルク栓が使われており、栓が抜けないよう、針金でコルクとびんを固定していた。1888(明治21)年に発売された「キリンビール」には、大びんで1.75インチ(約4.4cm)、小びんで1.5インチ(約3.8cm)のスペイン製のコルクを使用していた。コルク栓を引き抜くのには手間がかかる上、抜いた瞬間に泡が吹き出すことも少なくなかった。

1875(明治8)年、アメリカで「機械栓」と呼ばれる針金つきの栓が開発された。機械栓は急速に世界に広まり、その2年後には日本にも機械栓の輸入ビールが入ってきた。同じ頃、国産ビール会社でも「日の丸ビール」がいち早く取り入れている。しかし、機械栓は価格がコルクよりも高く、洗浄に手間がかかるというマイナス面もあり、日本では結局普及には至らなかった。



その後も欧米の各国で栓の研究が進められ、1892(明治25)年、アメリカで使い捨ての新しい栓が開発された。開発者が形状から「クラウン・コルク」と呼んだ王冠栓である。炭酸飲料にも耐えられることから、英米を中心にサイダー、ビールなどのびんに採用され始めた。日本のビール会社では1900(明治33)年、東京麦酒が最初に採用した。しかし、多くのビール会社は採用をためらった。従来の吹いて成型するびんはびん口が不ぞろいで、王冠栓を取り付けるとガス漏れやびん割れが生じるためであった。


その後製びん技術が発達し、1907(明治40)年には、大日本麦酒が試験的に王冠栓付きビールを販売し始めた。麒麟麦酒では、ドイツ人技師が容器もドイツ製にこだわったため、採用はしばらく見送られ、代わりにコルクにアルミのカバーが付いた改良栓、「ゴルデーコルク」を1910(明治43)年に導入した。しかし、王冠栓ほど便利ではなく、2年後の1912(明治45)年に王冠栓を採用することにした。その後しばらくコルク栓、改良栓、王冠栓と3タイプの栓の「キリンビール」が流通したが、大正時代には王冠栓のみとなった。

日本で用いられた王冠栓は、はじめは輸入品だったが、1908(明治41)年、王冠栓の特許を持つイギリスの会社が横浜に工場をつくってからは、国産品で賄えるようになった。さらに日本での特許期限が切れた大正時代以降は、各地で日本人による王冠栓生産が始まった。以後王冠栓には、材質などでの改良が続けられている。
 

最後に

進化ってすごいですよね
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